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#6-4

失敗した、と宗介は一番に思った。 一ヶ月前までは学校帰りに円佳を幼稚園まで迎えに行くのが日課だったが、今日から円佳も小学生になった。 入学式には母ではなく姉の藍良(あいら)が出席することになっていた。 女子大に通い寮生活をしている藍良は、円佳と会うのが久々だからと張り切っていて、今日は夜まで帰ってこない予定だ。 円佳の面倒を見る必要がないのであれば、宗介にとって自宅に帰る理由はひとつもなかった。 しかし、どこかで時間を潰そうにも何となく億劫な気分だった。 最有力候補は那緒の家だが、当の那緒は今日も部活だ。あの母であれば快く受け入れてくれるだろうが、さすがの宗介もそこまで面の皮が厚くはない。 それならばいっそ、家族の誰とも会わずに済むようにさっさと帰宅して、自室にこもってしまおう。眠いし。 そう考えたのが失敗だった。 広いエントランスを抜け、エレベーターに乗って九階へ。 辿り着いた忌々しい自宅のドアを開けた向こうに、確かに家族は誰もいなかった。 しかし、家族の誰よりも長い時間をこの家で過ごしている家政夫の存在を、宗介にしては迂闊なことに、失念していた。 宗介が帰宅したそのとき、家政夫の葉山(はやま)は洗って乾燥機にかけたスリッパを玄関のラックにかけ直している最中だった。 これ以上ない最悪のタイミングに、宗介は顔を歪ませて立ち尽くした。 ――失敗した。帰ってくるんじゃなかった。 葉山は葉山で、問題児の長男がこんなに早く帰宅するとは予想だにしなかったのだろう。いかにも人好きのしそうな柔和な顔を一瞬硬直させたが、すぐにぎこちない笑顔をつくった。 「ああ、宗介さん、お帰りなさい」と露骨に吃りながら言って、慌ただしく立ち上がる。 「今日は始業式でしたっけ……ずいぶん早いんですね。まだどなたも――」 葉山の言葉を最後まで聞くことなく、宗介は今しがた開けたばかりのドアを無言で閉じた。 好きな人間など数えるほどしかいない宗介ではあるが、世界で最も憎悪しているのが実の父親。そして最も嫌悪しているのが、家政夫として十年以上この家に出入りしている、葉山であった。 顔を見たのは久しぶりだ。春休みの間でさえ、あの男とは顔を合わせないで済むように気をつけていたというのに。 いつもならこの時間にはもう帰っているはずの葉山が、今日に限って遅くまで居座っており、逆に宗介の帰りは早かった。 やはりこの家に寄り付くとろくなことがない。 胸の内に沸々と湧き上がって止まらない嫌悪感をどうにか飲み込みながら、宗介は来た道を戻りエレベーターのボタンを押す。 あの男と同じ空間に二人きりでいるのだけは御免だった。例え極寒や炎天下だとしても、外の方がずっとましだ。 タイミングの悪さというのは、連鎖して重なるもののようだった。 地上一階に到着したエレベーターを降り、エントランスを出たところで、光希と鉢合わせた。 自分と同じ制服。朝は会わなかったから今が初見だ。しかし違和感なく見られるほど、新しい制服は光希に馴染んでいるようだった。 「何。どっか行くの?」 「うるせえ、放っとけ」 突っぱねれば、光希もそれ以上は何も聞かなかった。 行き先は考えていないが、ひとまず光希が来た道とは逆方向へ宗介は爪先を向けた。 そのまま黙ってすれ違うかと思った刹那、光希が口を開く。 「抑制剤」 足を止めたときには、すでに光希に背が向いていた。 僅か一歩か二歩の距離で、光希も立ち止まった気配がする。宗介は振り向くことはせずに弟の言葉を待った。 「先週、母さんが整理してた。使わないやつはほとんど処分したっぽいよ」 淡々とした低い声は、車でも通れば掻き消されそうなボリュームだった。しかし宗介の耳には届き、その意図するところも、寸分の相違もなく伝わる。 「確認しといた方がいいんじゃない?」 言いたいことを言い切ると、宗介の反応を待つことなく光希は歩き出した。 宗介が降りたばかりのエレベーターに乗り、自宅のドアを開け、葉山と当たり障りない挨拶を交わすのだろう。 向かい風に前髪を散らされながら、宗介も止めていた足を踏み出す。 空はまだ明るいが、風はどこからか夕方の気配を運んできていた。

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