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#7 罠と蜜

土曜の夜のほとんどを、那緒は宗介と共に過ごしている。 そこには円佳がいることもあれば、いないこともあり、寝る場所は那緒の部屋と決まっている。詳しく言えば那緒は床の布団で、宗介はベッドで。パワーバランスはいつ何時も覆らない。 週末は宗介の親が自宅に帰ってくることが多い。 両親が揃う日も、母だけの日もあり、また土曜と日曜の両日ではない場合もあって、まちまちだ。家政夫だけは全てを把握している。 父が家にいるときは、円佳を外泊させられない。母がいるときは、円佳が母と一緒に寝たいと言う。宗介は両親、とりわけ父に極力会いたくない。 そういう理由で、宗介が週末に一人で那緒の家に泊まることは多かった。 「円佳、ちゃんと元気に学校行ってる?」 夕食を済ませ、那緒のベッドに仰向けになった宗介に、部屋の主はそう声をかけた。 円佳が小学校に入学してから二週間が経った。那緒と最後に会ったのは一ヶ月ほど前になる。 今頃は家で母とデザートでも食べながら、一生懸命に学校の話をしているかもしれない。微笑ましい気持ちで想像するが、少し寂しいような気もした。 那緒の枕に真っ直ぐな短い黒髪を散らして横たわる宗介は、手にした本に目線を向けたまま低い声で「おう」とだけ返す。 分厚い文庫本は古びていて、濃紺一色の表紙に、小難しそうなタイトルとカタカナの著者名。 瞬きも少なく活字に目を走らせている宗介の横顔を、那緒はぼんやりと見つめていた。 床に胡座をかき、ベッドの枕元に肘をつくと、二人の顔の距離はおよそ三十センチを切る。 一度だけ宗介がじろりと横目に睨んで「見んな。近ぇ。ウゼぇ」と吐き捨てたが、「ごめん」と平謝りして尚、そこを動かない那緒に、舌打ちをくれてそれきり諦めたらしかった。 互いに慣れた距離感のまま、しばらくそうしていたが、ページを捲る宗介の指の動きが六回目を数えようとしたところで、那緒がはっと息を飲んだ。 何事かと再び宗介が視線を寄越すと、しどろもどろな口調で那緒は言う。 「そ……、宗ちゃん、お風呂入ってきなよ」 「はぁ? 風呂?」 急だな、と怪訝な顔を見せる宗介に、那緒は立ち上がって手早く彼専用のバスタオルを用意すると、有無を言わさず押し付けた。 「早く済ませないと、母さんがうるさいんだ。次俺が入るから、宗ちゃん、お先にどうぞ」 促され、宗介は戸惑いながらも、受け取ったタオルを手にベッドから起き上がった。栞を挟んだ文庫本を枕元に残して部屋を出る。 手を振ってそれを見送った那緒は、閉まったドアの向こうで階段を降りていく足音を聞き届けると、はぁーっ、と大きく息を吐き出してベッドサイドに顔を伏せた。 ――あぶねえ。ムラッとキた。 腹の底に湧いた、口に出せない類の衝動が一旦鎮まるのに安堵しつつ、那緒は深呼吸を二度三度繰り返した。 最近、宗介から甘い匂いを感じることがある。 母の作る菓子のように胸焼けのする甘さではなく、花のように淡く涼やかに香るものでもない。 言うならば熟した果実を割ったような、濃厚で甘ったるい、蠱惑的な匂い。 これがオメガのフェロモンというものなのだと、誰に習ったわけでもないが、いわば本能で那緒は理解していた。 初めてそれを嗅いだときの記憶が蘇る。 ちょうど二年前の春。 高校に入ったばかりで、毎日が渓流のような速度で進んでどこか落ち着かないような、慌ただしい日々を過ごしている最中だった。 朝のホームルームが始まっても姿を見せなかった宗介は、一限目が半分を過ぎた頃になってようやく現れた。 遅刻の原因は恐らく“いつもの”だろう。 それは宗介の、高校においては初の遅刻であったが、中学時代から彼を知っていたなら――例えば片方の頬を腫らしていたり、シャツの袖口に誰かの血が付着していたりする状態で登校してくる彼の姿を見たことがあるならば、それは容易に想定出来た。 もっともその日、宗介は無傷であったし、目立つ汚れや物騒な痕跡も見受けられなかった。 教壇の国語教師は宗介の遅刻を咎め、理由を尋ね、それに対して「さーせん」「寝坊っす」と愛想なく答えながら、宗介は自身の席へ向けて平然と歩を進めた。 五十音順の名簿で三番より大きい数字になったことのない那緒は、このときも廊下側最前列の座席に座っていた。宗介はその三つ後ろ。 教室後方のドアから入って来た宗介は、当然ながら那緒の前や横を通過することなく自身の席へ辿り着いた。 それにも関わらず、宗介が音を立てながら椅子を引き腰を下ろしたとき、那緒はその匂いを色濃く感じて思わず振り向いた。

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