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#7-2

それは一瞬にして脳髄を浸食するかのような、嗅覚のみに留まらない、暴力的なほどの刺激だった。 握りつぶされた果実の甘さが、粘膜に纏わりついて思考を支配する。視覚や聴覚が霞んでしまうようだった。 今が授業中であることも、ここが教室であることも、束の間、意識の彼方に遠のいて。 時間にしてほんの数秒。瞬く程度の間だったはずだ。教師に指摘されることもなく、真後ろのクラスメイトに「赤羽、どうしたの」と小声で囁かれて、那緒は我に返った。 とうに席についている宗介と目が合い、不機嫌を露わにした眉間の皺をさらに深くされる。薄い唇が音は発さずに「なんだよ」と動いた。 誤魔化すように首を横に振り、那緒は教卓に向き直った。 心臓が大きく鳴っている。頭に昇った血がゆっくりと冷めていく、短距離を走り終えたあとに似た感覚に、密かに息を吐き――はたと気づいて、一気に青褪めた。 下腹部が重くなっている。 深刻なレベルではないものの、スラックスの下のそこに血が集まり、明らかに勃ちあがりかけていた。 なんで、と軽いパニック状態に陥った那緒は、泣きそうな気持ちで自ら太腿のあたりを抓る。 痛覚すら鈍ったようで怖くて、痣になるのではと思うほど強く力を込めた。 暫くそうしながら無心でいるよう努めていると、次第に頭の中は冷静さを取り戻し、股間も落ち着いてきた。 人知れず涙目になっていたのをこっそりと指先で拭いながら、もはや授業に集中など到底できずに、今しがたの出来事に思考を馳せる。 宗介が発するオメガのフェロモンに、アルファである自分が反応した。そうとしか考えられなかった。 甘い匂いと衝動的な欲求、聞きかじった程度の世俗的な性知識とも一応、合致している。 それとなく周囲を伺ってみても、他の生徒は何事もない様子で黒板や教科書に視線を注いでいた。 この匂いを感じているのは自分だけなのだろうか。 まだ知り合ったばかりのクラスメイトたちのバース性は把握していないが、比率を考えれば、クラスにあと四、五人くらいはアルファがいるはずだ。 これがオメガのフェロモンによるものだとしたら、自分以外のアルファにも影響が出ているのでは。 即ちそれは宗介がオメガであるのが他者に知れてしまうということで、那緒はそれを一番に危惧していた。 結果から言えば、宗介の秘密は守られた。 暴く者はいなかった、と言う方が正しいかも知れない。 オメガとアルファには相性の良し悪しがあり、フェロモンが覿面に効く相手もいれば、そうでない場合もある。那緒はその日の夜にネット検索でこのことを知った。 さらに、一般的に第三次性徴と呼ばれる、バース性の目覚め。 オメガのヒートやそれに伴うフェロモンの放出、そのフェロモンをアルファが察知できるようになること、そういった身体的変化は平均十六から十八歳で訪れる。 高校一年生になりたてという年齢もあり、他のアルファのクラスメイトは宗介のフェロモンに気づかなかった。 真偽は定かではないが、那緒はそう結論づけるしかなかった。 それ以来、那緒は度々その匂いに悩まされてきた。 とは言え、初回こそパニックに陥ったものの、認識と慣れは随分那緒を強くさせた。瞬間的に興奮はするが、自分を制御できないほどではない。 それよりも心配なのは、宗介自身が無自覚にフェロモンを垂れ流しにしてしまうことだった。 他のアルファがフェロモンにあてられて宗介を襲うようなことがあってはまずい。オメガであることがバレてしまうだけでも一大事だ。 まだオメガとして成熟していないのだろう、ヒートの周期も不安定らしい宗介は、フェロモンの量にも波がある。 那緒の知る限りでは、あのときのような濃い匂いを撒き散らしていたことはそれ以降、ない。あれが原因でややこしい目に遭ったことも、恐らくないはずだ。 ただ、ヒートを迎えると宗介はどこかに消えてしまう。 弱った野生動物が身を隠すように、一人でひっそりと苦しみに耐えているのだ。 もしもそんなときに、甘い匂いに釣られたアルファが宗介を見つけてしまったら。 那緒には守ることができない。 守れる場所に宗介はいてくれない。 臓腑に針を刺されたように、ずっと消えない心配が那緒をちくちくと苛むのに、宗介に忠告することすらできなかった。 それは宗介と友春と、三人で交わした約束を破ることになる。 那緒はぐしゃぐしゃと自身の髪を搔き乱し、先ほどまで宗介が寝そべっていたシーツに顔を埋めた。 普段は自分が寝ているのだから、慣れた匂いであるはずのそこに、薄っすらと残る甘い匂い。 何も考えずに溺れていたいほどの心地良さと、それを許されない現実に、深く溜め息を吐いた。

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