30 / 111
#7-3
十分かそこらで宗介は戻ってきた。相変わらず烏の行水だ。
那緒を悩ませる匂いはほとんど消え、嗅ぎ慣れたボディソープの香りがごく微かに漂う。
「お前もすぐ入れって。オカーサンが」
「ん、わかった」
まだ水気を帯びたままの髪をバスタオルでがしがしと拭きながら、宗介はベッドに腰を下ろした。反対に那緒はのっそりと立ち上がる。
宗介は那緒の母のことを、おかあさん、と呼ぶ。実の母を母さんと呼ぶときよりは、恐らく幾分かぎこちない発音で。
小さい頃は友春と同じようにナオママと呼んでいたが、照れが生まれたのだろう、いつからか呼称が変わっていた。
そっちの方が照れくさくないのかな……などと那緒はこっそり思っている。
那緒にしてみれば、片想いをしている相手が、自分の母親をおかあさんと呼んでいるのだ。変な気分になってしまっても咎めないでもらいたい。
那緒がバスタオルと着替えを用意して宗介の前を横切ると、宗介がすん、と鼻を鳴らした。
「おい」と言葉は荒いが穏やかに呼ばれ、那緒は振り向く。ベッドに腰掛ける宗介を対面から見下ろす形になる。
宗介は首に掛けたバスタオルから離した手を持ち上げた。その手が那緒の部屋着の襟元を些か物騒な仕草で掴む。
ぐっと力任せに引き寄せられ、那緒は抗えずに上半身を傾けた。
「うわっ」
顔が至近距離まで近づいたかと思えば、宗介はそのまま那緒の首元に鼻を寄せた。すん、すん、と鳴る小さな音で、匂いを嗅がれているのだとわかり、那緒は身体を硬直させる。
「な、何してんの、宗ちゃん」
汗臭いよ俺、と僅かに身を引くが、引いたぶん以上に宗介が詰めてくるのでいよいよ焦る。
未だ襟元にある宗介の手に、うるさいほどの鼓動が伝わってしまっているのではと思った。
しかし宗介は那緒の様子に構う様子はなく、ぎりぎり触れない距離で首筋に顔を埋めたまま、
「この匂いってお前からしてんの?」
そんなことを尋ねてきた。
「え、に……匂い?」
「なんか、甘い……焼き菓子みてーな匂いすんだろ、この部屋」
甘い匂い、と言われても、那緒にはむしろ「宗ちゃんこそめちゃめちゃエロい匂いしてるんですけど」ということしか心当たりがない。
当然口に出せるわけもなく、しかし、焼き菓子のような匂いというのは、宗介から感じるそれとは印象が食い違っているような気もする。
「別に何もつけたりしてない、けど、そんなにする……?」
「いや、そんなにはしねえ。でも前から何の匂いかと思って気になってた」
那緒宅で使っているシャンプーやボディソープ類は、どれもあまり香料の強くないものだ。使った直後は仄かに香りはするが、匂いが残るほどではない。
那緒自身、宗介の言う匂いの出所を探ろうと、嗅覚に意識を集中してみる。
しかしそれによって、ボディソープの香りの向こうにじんわりと立ち上る、宗介のフェロモンの匂いに気づいてしまった。
「あっ、あれかな、母さんが作るお菓子の匂いとか……部屋着に染みついちゃってんのかな?」
しどろもどろに言いながら、ついに耐えられなくなって身体を離す。
宗介はやや首を傾げつつも「そうかもな」と答え、それきり触れてはこなかった。
おたおたと逃げるように部屋を飛び出し、脱衣所の戸を閉めたところで、那緒は意味を成さない声を漏らしながら蹲った。
心臓がのたうち回る勢いでバクバクと跳ねている。
仮にも幼馴染だ。毎週のように同じ部屋で寝ている仲だ。ちょっと距離が近い、程度のことには慣れている。
慣れていても、どうにかなってしまいそうな匂いと、あの仕草。
普段は熊でも殺しそうな目をする宗介が、入浴後の独特の倦怠感を漂わせながら擦り寄ってくる様子は、気まぐれな猫を思わせた。
たぶん眠かったんだろうな、と思う。声も視線もどこかふわふわとしていた。那緒が戻る頃には寝ついているかもしれない。
自分のベッドで警戒のけの字もなく熟睡する宗介。
出来ることなら据え膳と見做して襲ってしまいたいが、それは全ての終わりを意味する。長年の友情も信頼も恋心も。
下手をすれば那緒の人生が終了する可能性すら否定しきれない。比喩ではなく。
数十秒そのままの姿勢で、鼓動が落ち着くのを待った那緒は、ふるふると頭を横に振った。
大切な幼馴染に向ける劣情は、消え去りはしないもののどうにか霧散してくれたので、のろのろと立ち上がり衣服を脱ぎ始める。
脱衣所にも微かに宗介の匂いが残っていて、意識しないようわざと大きな動作で着ていたシャツを放り投げた。
「……あ、パンツ忘れた……」
ともだちにシェアしよう!