31 / 111

#7-4

二日続けて眠れぬ夜を過ごしたあとの月曜日は、那緒にとって辛いものがあった。 土曜も日曜も宗介は那緒の家に泊まったため、薄く漂い続ける甘い匂いに苛まれながら、悶々と布団で丸くなる羽目になったのである。 三限の古典が眠気のピークだった。数度舟を漕ぎ、教師に頭を叩かれたあとも睡魔は完全には立ち去ってくれなかった。 そして現在、四限の体育である。 種目はバドミントン、那緒の最も苦手とするラケット競技だ。空振りは当たり前すぎて、もはやクラスメイトも笑ってすらくれない。 那緒にできることは真っ直ぐ走ることだけで、それが活かせる場面が皆無の競技では見られるところがなかった。 いつものことではあるが、だからといって自己嫌悪に陥らないわけではない。一試合をボロ負けで終えた那緒が、体育館の隅でひっそりと汗を拭きつつ肩を落としていると、ある一点にふと目が留まった。 ――宗ちゃん? 那緒が立っている位置とは反対側、体育館の出入り口だ。 各コートを巡回している体育教師の目を盗み、密やかに体育館の外へと抜け出す、幼馴染の後ろ姿であった。 目眩に似たふらつきを感じたのは、ほんの三十分ほど前だった。 休み時間、ジャージに着替えている最中だ。 立ち眩みのように視界が歪む感覚があり、続いて訪れたのはちりちりとした首筋の火照りだった。 覚えのあるそれに、宗介はざわつく教室の中でひとり息を飲む。 ヒートの前兆だ。二週間前にも起こったばかりで、比較的症状が軽く済み安堵していたのに。 一般的に、第三次性徴が進むにつれオメガのヒートの周期は安定してくる。 宗介は初めてのヒート自体は早かった割に、周期や症状の程度が不規則的だった。 それでも一ヶ月のうちに二度もヒートが起こった経験はなく、油断していたといえる。 普段の宗介であればこの時点で体育の授業に出ることは諦め、いつもの場所に籠もることを選択しただろう。しかしこの日の宗介はそうしなかった。 これまで予兆が空振りに終わったこともなかったわけではない。抑制剤は鞄に入っているし、最悪の場合でも、体育の授業中ならば隙を見て抜け出せるだろうとも思った。 かくして宗介は同級生の波に紛れて体育館へと向かい、じわじわと全身へ広がっていく火照った感覚に後悔することとなったのである。 複数設けられたコートのそれぞれで、一試合が終わるたびに次の生徒たちが入れ替わる、それを繰り返している体育館の中で教師の目を盗むことは難しくはなかった。 何人かの生徒には見られるかもしれないが、大した問題ではないだろう。何せ自分は不良と認識されていて、授業を抜けることも然程珍しくはないからだ。 そう思っていた宗介は、授業が始まって二十分ほど経過したところで、僅かに呼吸が乱れ始めるのを感じ離脱を決意した。 難なく体育館を出て、足早に教室へと向かう。幸いにして誰かと鉢合わせることもなく、無人の教室へと辿り着いた。 最後列の自分の席で乱雑に鞄を開き、一番小さな内ポケットを探った。 すぐに指に当たるはずの感触がなく、宗介は面食らって立ち竦む。 前回のヒートの後で、残り数回分は残っていることを確かに確認したのだ。二週間のあいだに荷物の入れ替えもしていない。 隣のポケットを確かめ、内容物を掻き分けて鞄の中を隅まで探すも、半分ほど残っているはずの抑制剤のPTPシートを発見することはできなかった。 宗介の手のひらに汗が滲む。腹の底のあたりに熱が溜まり始め、背筋が粟立つ。 意識して深く静かに呼吸をしていたのが、動揺からか乱れだした。そのとき。 「……宗ちゃん……?」 聞き慣れた声に名前を呼ばれ、大袈裟すぎるほどに宗介の身体は跳ねた。 宗介をそう呼ぶのはこの学校内で一人だ。 肩越しに振り向くと、教室の入り口に那緒が立っていた。 体育館を抜け出す姿を、他の誰に見られても問題はなかったかもしれない。 ただ一人、宗介を心配して追ってくる可能性のある幼馴染に見られたこと、そして那緒が実際にそうしたこと。それが宗介の誤算であった。

ともだちにシェアしよう!