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#8 氷熱

廊下を走っていく二人分の足音。気づいた何人かの生徒は顔を上げ、見えもしないのにそちらへ視線を向けていた。 友春のクラスは日本史の授業中で、担当教師は熱量高く本能寺の変を語っている最中だった。そうでなければ異変に気づき廊下の様子を伺って、全力疾走していく宗介と那緒を見咎めたかもしれない。 隣のクラスから聞こえた、決して大きくはない声が、那緒のものであることを友春は聞き分けた。伊達に幼馴染をやっていない。 そして足音は二人分とくれば、悪い予感が()ぎるのも当然だった。 先生、具合が悪いので保健室に行ってもいいですか。挙手してそう告げると、足早に教室を抜け中庭の向こうを目指した。 傷ついた野生動物のように、ヒートを迎えた宗介が学校内のどこに身を隠しているのか。確かめたことはないが、友春はおおよそあたりをつけていた。 校舎の中でないのは確か。宗介はいつも上履きのまま、外から昇降口へ戻ってくるのだ。 放課後に敷地内をうろつき、友春は部室棟の奥に古い倉庫を見つけていた。入り口を確かめ、一カ所だけ鍵が掛かっていないことも把握済みだった。 迷いなく向かってみれば、どんぴしゃりの場所で、ほぼほぼ友春の予想通りの事態が発生していた。入り口を閉めてすらいないことには、さすがに呆れを通り越して笑えたが。 友人を押し倒して極度の興奮状態にあるらしい那緒は、友春が背後に立っても全く気づいていなかった。ポンコツが過ぎる。 鼻で笑って唾を吐きかけてやりたい気持ちで、その背中に向け友春は右足を振り上げた。 見事に吹っ飛んだ那緒を外へ放り出し、内側から鍵を掛ける。入り口を閉ざしたことで一気に暗さを増した倉庫の一室内に、宗介と二人きり。 そして現在に至る。 「しんどそうだね、宗介」 乱れたジャージの裾を片手で引っ張り下ろし、上体だけは上げた姿勢で、宗介は息を荒げていた。 友春を見上げる目は警戒に満ちていて、まさに手負いの獣のようだ。屈んで目線の高さを合わせる、こちらも獣に対するようにしながら、友春は言葉をかける。 「クスリ飲んだ?」 「……消えた」 「は?」 宗介は鋭くひとつ舌打ちをすると、紅潮した顔を隠すように俯いた。絞り出すように答える。 「鞄に、入れてんのに……どっかいった……」 「……マジ?」 くそ、と吐き捨てる声が現状を物語っていた。友春はマスクの下で言葉を失う。 抑制剤を持たないオメガがフェロモンを垂れ流し、アルファに犯されるという事件は、あちこちで腐るほど起きている。社会的に様々な対策が講じられた今でも、だ。 自分が現れなければ、友人同士が被害者と加害者になって、その通りの事態に陥っていたのだ、今頃この場所で。 友春は急にそれを実感した。 宗介ならば根性でヒートを抑え込んで、那緒を返り討ちにするくらいのことはしそうだと、心のどこかで思っていた。 先刻の宗介の、那緒に為す術なく組み敷かれた姿が脳裏に甦る。 そして目の前の彼は、無意識にか自分を抱き締めるようにして小さくなり、あえかな息を絶えず漏らしている。 こんなに弱々しい宗介は初めて見た――と友春が思ったのも一瞬のことだった。 宗介は俯いていた顔を上げると、キッときつく友春を睨み、唸るような低い声を発した。 「友春、……出てけ。ひとりに、しろ」 その一言だけ言うのにも、いったいどれくらいの葛藤があったのか。氷山のようなプライドをどれだけ削られたのか。それを思って友春は、居たたまれない気持ちになる。 いっそのこと、我を忘れてしまえばいいのに。那緒のように本能に支配されて、記憶を失うほど乱れてしまった方が楽かもしれないのに。 ――可哀想な宗介。 同情とも憐憫とも違う。追いつめられて尚、弱味を隠そうとするものへの、どこか賞賛にも似た思いだった。友春は宗介の言葉に従うことはせず、静かに歩み寄るとその傍らに膝をついた。 「放っておけるわけないだろ」 頬との隙間に指を差し込みマスクをずり下げる。露わになった友春の顔を、疑問符が浮かんだ目で見返して、宗介は僅かに身を後ろへ引いた。 逃げを打つような仕草も気に留めず、友春は静かに手を伸ばす。指先だけで宗介の、普段は青白い頬に触れ、 「俺が楽にしてやるよ」 低くはっきりとそう言った。言ってからすぐにばつの悪い顔になって、 「……なんかエロ漫画みたいなこと言っちゃった。不本意だから今の、ナシにしといてもらえる?」 誤魔化すように膝で宗介との距離を一歩縮める。ほとんど躊躇のない動作で、衣服越しに宗介の下肢に触れた。

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