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#9-3

二〇〇メートルを駆け抜けるあいだだけ、いつも那緒は無心でいられた。 感じるのは空気抵抗とトラックの硬さ。那緒にとって、走るという行為そのものは思考を必要としなかった。 一瞬でありながら永遠のような二十秒余り。 一〇〇より二〇〇が好きなのは、前半のカーブを抜けるときの解放感が欲しいからだ。速度を落とさず直線に入り、さらに加速しながら地を蹴って八十メートルを突き抜ける。 そのときだけは、世界のどこにも自分の敵はいない気がした。 これが記録会になると別だ。隣のレーンに並んで走る選手がいる。彼らは那緒の競走相手だ。この場合は敵と言い換えてもいい。 那緒は一人で走るのが好きで、誰かと走るのは苦手だった。だから自分は陸上選手ではなく、単なるランナーなのだと思っていた。 実のところ記録にもあまり執着はない。ただ、自分の取り柄は人より少し早く走れることだけ。 何をやってもだめな自分が俯かずに生きるためには、陸上を続けることは義務であるように感じていた。 マネージャーから休憩を促す声がかけられ、ぬるくなったスポーツドリンクを飲みながら、まだ暗くなる気配はない夕刻の空を見上げる。 こめかみから汗が一筋、目元に滴った拍子に、昨日の失態を思い出してしまった。 ――宗ちゃん、今日はどうしてたのかな。 那緒が宗介を襲いかけたのは昨日のことだ。帰った、と友春が言った通り、あれきり宗介が教室へ戻ってくることはなかった。 那緒は宗介との接触を三日間禁じられたが、当の宗介は今日、そもそも学校に来なかった。 友春に聞いても「知らない。体調崩したんじゃないの」と関心なさげな返答だ。連絡をとってくれるよう頼んでみたが、帰り際の友春を捕まえても、返事は来ていないとのことだった。 「既読ついたから生きてはいるだろ。あいつがレスないの、いつものことじゃん」 「そうだけどさ……」 「まあ、お前の顔見たくなくてサボってる可能性はあるけど」 「その可能性を否定してほしくて聞いてんだよぉ……!」 そんなやりとりも空しく。宗介の欠席の理由は、未だ那緒にはわからずじまいだ。 ――もし、明日も欠席だったら。 ゆっくりと流れる鱗雲を見上げながら、那緒は考える。 弟の光希に聞いてみようか。クラスは知らないが、きっとすぐに見つかるだろうと確信があった。 彼らの仲の悪さは承知の上だ。ひとまずは宗介の無事さえ確認がとれればいい。那緒はそんな気持ちだった。 自分が避けられているのだとしたら辛いが、たとえそうだとしても、何かの事故や病気でないのなら、その方がましだ。 ぼんやりと空を眺めていた那緒は、ふと視線をその少し下、校舎の一部に留めた。具体的には、三階の一番端の窓に。 そこに人影があること自体は、何もおかしなことではなかった。放課後とはいえ校内に残っている生徒はいくらでもいる。 ただ、その位置と様子が那緒の注意を引いた。 そこにあるのは那緒と宗介のクラスだ。さらに言えば、窓際の一番後ろは現在、宗介の席となっている。 人影が立っているのはおそらくその席にあたる場所で、顔は見えないが、結構な大柄の男子のようだ。 那緒は不思議に思いながらも何気なく見つめていたが、その人影はしばらく経ってもそこから動こうとしない。大きく身動きすることもなく、何をしているのかまるでわからない。 那緒は、胸の内になんとなく嫌な感覚が広がるのを感じた。 何かを予想できたわけではないが、目撃してしまったからには確かめなければというような、責任感に近いものを抱いた。 教室に忘れ物をしたので取ってくる、と一言マネージャーに告げ、昇降口ではなくグラウンドに面した校舎の出入り口を目指す。その間際に見上げたときも、やはり人影は変わらずそこにあった。

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