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#9-4
土埃で黒っぽく汚れた靴下のまま、ぺたぺたと階段を昇り、廊下を進んでいく。
三階はほとんど生徒の声もなく静かだった。通い慣れた自分の教室の前で那緒は足を止める。
引き戸は前後とも閉まっていた。顔の高さにあいた窓からそっと中を覗き込む。
思った通り、やはり宗介の席の前に、制服を着た体格の良い男子が立っていた。
那緒はそこで展開されていた光景にぎょっとして目を見開く。
数冊のノートや教科書、おそらく机に入れっぱなしになっていた宗介自身のものだろう。それらを宗介の机の上に広げて見下ろしながら、その男子生徒は自慰をしていた。
顔は見たことがあるが那緒は名前を知らない、同学年の男子だった。
くつろげたスラックスの前を右手で扱きながら、左手は時折机の上に乗せられる。開かれたノートの表面を撫でているように那緒には見えた。
あまりの状況に脳の処理が追いつかないが、宗介の私物が何かあらぬことに使われている、ということだけはわかった。
パニックに陥りながらも、とにかく物理的被害を防がなければ、という焦燥と義務感が、那緒の身体を突き動かした。
ガラリと大きな音を立てて引き戸を開ける。男子生徒はその場で跳ね上がるほどの反射反応を見せた。辛うじて腰に引っかかっていたスラックスが、その拍子に完全にずり落ちる。
股間を丸出しにした情けない格好で、彼は紅潮した丸顔を勢いよく那緒に向けた。
「あ……あっ、あか、ばね……くん」
「……えーと、あの、……何してんの……?」
相手はどもりながらも、宗介の友人たる那緒を間違いなく認識したらしい。
現場を押さえておいて、何をしているなどと訊くまでもないことは明白だ。しかし高圧的に追及したり糾弾したり、そういうことができないのが那緒だった。
そしてそんな那緒の性格を把握してのことか、相手のほうは弾かれたようにその場から逃げ出そうとして――転んだ。
スラックスにより足をもつれさせ、隣の席の机と椅子を巻き込みながら、盛大に転んだ。
大隈 、というその男子生徒は、ほとんど土下座に近い姿勢で床にヘたり込んでいた。那緒はその手前に靴下のまま屈み、彼の弁解をひととおり聞いてから、
「つまり、あんた……ストーカーってやつ?」
そう結論を出した。
「ち、違う……! 鬼塚くんのことが好きなんだ、見ていられればそれだけでいいんだ……それ以上何も望んでないっ」
「いや、だから陰からこっそりずーっと見てたんだろ? それストーカーじゃん」
「違うっ」
もげて飛んでいくのではと思わせるほどの勢いで、大隈は首を横に振り続ける。那緒は溜め息をついた。
「見てただけならまだしも、荷物漁ったり、……今みたいなのは、アウトだろ。犯罪だよ」
「い、今のはっ、本当に出来心で……!」
「ほんとに? 今までにも何回もやってたんじゃねえの?」
「やってない! 本当に!」
「じゃあ荷物は? 鞄とか、ロッカーとか」
「う……っ」
大隈が言葉に詰まった。
完全アウト、と那緒は肩を竦める。
「ていうかさ……なんで宗ちゃんが好きなの?」
俺が言うことでもないけど、と思いつつ尋ねてみる。あの一見凶悪な宗介に恋をする男が自分以外にいた、ということに驚いていた。
大隈は縦にも横にも大きい身体をもじもじさせながら頬を染める。
「お、鬼塚くんは……僕が街で不良に絡まれてたときに、助けてくれたんだ……」
うわあ、ベタかよ。那緒の脳内の友春がそう吐き捨てた。
半年ほど前、大隈が商業施設のトイレで他校の不良グループにカツアゲされていたところに、偶然現れたのが宗介。
どうやら宗介はそのグループと以前揉めたことがあったらしく、彼らの標的が大隈から宗介に変わった。しかし宗介は多勢に無勢をものともせず応戦。
リーダー格を失神させると相手方は逃げ出し、宗介は隅で巨体を縮こまらせた大隈には目もくれず、さっさと小便器で用を足し颯爽と去っていった。
大隈が熱っぽく語った以上の話を、那緒は曖昧に顔を歪めて聞いていた。
那緒とて何度も宗介にいじめっ子から助けられ、それだけが理由ではないにせよ、その過程で恋をした身だ。気持ちはわからなくはない――が、宗介の魅力を大隈と語り合いたいわけでは断じてない。
「鬼塚くんは、僕のことなんか認識してないだろうし……でも、それでいいんだ。付き合いたいとか思ってるわけじゃないから」
猫背をさらに丸くした大隈は、大きななりにも関わらず弱々しい草食動物のようだった。
再度の溜め息と共に頭を掻いた那緒だったが、しかし。
「俺がアルファだったら、もしかしてチャンスがあるかも……って、思ったけど……俺はベータだから……」
続いた言葉に顔色を変えた。
宗介はベータということで通している。
大隈の弁は、それでは意味が通らない。
那緒の目の奥がすうっと冷える。
「……ちょっと待って。なんで宗ちゃんが……オメガだって知ってんの?」
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