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#10 藪の中
「母さんみたいになりたくねえ」
五年と少し前。あと少しで小学校を卒業するという冬だった。選びそこねた死と背中合わせになったまま、宗介は那緒と友春に言った。
「自分が気持ち悪い。あんな風になるのかもって思っただけで吐き気がする。でも」
膝の上で握りしめた小さな拳が震えているのを、那緒はほとんど息を止めて見つめていた。この世のすべてを敵に回したような、宗介の思い詰めた顔。
あのとき感じた、胸が絞られるような窮屈な苦しさを、今でも鮮明に覚えている。
「クソ親父みたいな人間には、もっとなりたくねえ」
だから、と続いた言葉が、今も三人を縛り付けている。
憎悪も絶望も何ひとつ飲み込みきれないまま、宗介は今も生きていて。那緒と友春は、彼に手を差し伸べてやることすら許されずにいる。
夕食も入浴も済ませたあとのひとりの自室で、那緒は学習机に頬杖をつき、何度目かもわからない大きな溜め息を吐き出した。
見つめる手のひらの上にはシートに入ったままの錠剤。宗介の鞄から消えた抑制剤である。もちろん那緒が盗んだわけではない。
つまり真相はこうだった。
数日前、どんなタイミングを見計らってか知らないが、大隈は宗介の鞄を漁っていた。
内側のポケットに大切に、そして密かに収められていた抑制剤を見つけ、宗介が実はオメガであるという可能性に考え至った。
それを抜き取ったのは出来心だったそうだが、宗介にヒートの症状が現れるのを期待したのは確かだろう。
ただし今回宗介がヒートを迎えたのは授業中のことだったため、大隈はそれを知ることはできなかったらしい。
かくして那緒は宗介の抑制剤を取り返した。
大隈の自室で大切に保管していたという。
これさえあれば、大隈の犯罪行為さえなければ、自分と宗介のあいだにあんなことは起こらず、こんな溝が生まれてしまうことはなかったのだ。やり場のない憤りと虚しさ、後悔と情けない気持ちが綯い交ぜになって那緒を襲っていた。
これを宗介に渡して――いや、その前に謝罪だ。謝罪の気持ちを伝えた上で、事の経緯を説明する。
あれから三日連続で学校を欠席した宗介のことを思いながら、那緒はそう決意し、頭の中でシミュレーションを始めた。
友春に言い渡された三日間の接触禁止は今日で終わる。
明日、宗介は学校に来るだろうか。自分と目を合わせて、話を聞いてくれるだろうか。
那緒がどれだけ安眠を犠牲にして思い悩んだところで、その全ては宗介に委ねる他ないのであった。
翌朝、那緒は寝不足の頭をぼやぼやさせながら、少し早めに登校した。
教室に宗介の姿はないが、いつものことだ。宗介の登校時刻は比較的遅い。
荷物だけを自分の席に置くと、那緒は廊下で宗介を待った。
途中で現れた友春が、白い目をして「待ち伏せとかキモ……」と呟き隣の教室へと消えていった。那緒はめげない。予鈴の時間が刻一刻と迫る中、大好きな幼馴染をじっと待った。
そして本当に予鈴間際になってから、宗介はようやくやって来た。
スラックスのポケットに突っ込まれた両手。
気怠げな足取りでふらりと現れた宗介は、待ち構えていた那緒を見るなり眉を跳ね上げ、しかし踵を返すことはなくそのままゆっくりと歩いてきた。
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