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#10-2

「そ……宗ちゃん、おはよう」 「……おう」 妙に乾いた感じのする喉から、吃りながらも声を出す。少し間が空いて、宗介の低い返事。 黒い瞳は静かで、那緒はそこにある感情を読みとることはできなかった。 教室の前で立ち止まった二人をよそに、廊下を生徒たちが通り過ぎていく。 宗介の顔を見た途端に、那緒の言おうとしていた謝罪の言葉は、胸の内で質量を増してつかえてしまった。 なんとか押し出そうと大きく息を吸って、泳ぎそうになる視線をしっかりと宗介の目に向けて。 「あの、……あのさ、こないだは」 「忘れた」 言いかけた言葉はすぐに遮られてしまった。 那緒の口は開いた形でそのまま固まる。対照的に宗介は、言い切るなり薄い唇を一文字に結んだ。 切れ長の目元は凪いでいて、真っ直ぐに那緒を見つめている。吸い込んだ息を言葉にする回路を、那緒はその目に堰き止められたような気がした。 宗介が再び小さく唇を開く。 「テメーも忘れろ」 そう言うと宗介は、那緒の返事を待つことなく足を踏み出して教室の中へと入っていった。 計ったように予鈴が鳴り響く。廊下に残っていた他の生徒たちも駆け足で去っていく。 那緒は数秒のあいだそこから動けなかった。職員室から学級担任が姿を現すのを視界に捉え、ようやく慌てて教室へと戻った。 授業中も、休み時間も、那緒はずっと宗介のことが頭から離れなかった。 感情を押し殺したような、不自然に平静を保った顔。 あんな顔をさせるくらいなら、全力でブチ切れられて、フルスイングで殴られでもした方が数倍ましだった。 そして、忘れろ、という言葉。 黒板にチョークで書かれた数式は、いくら眺めていても全く頭に入ってこない。 忘れた。テメーも忘れろ。ということはつまり、なかったことにしよう、ということで。 あの出来事は、フェロモンの影響で起こってしまったことだから。いわば事故だから、と。 那緒にとっては、あのとき宗介に伝えた言葉は真実だ。 口にしてしまったのは勢いだったにしろ、宗介のことが好きだという気持ちは、決してフェロモンによる錯覚ではない。 しかし宗介はあの日のことを、それも含めてまるごと封印してしまおうと、そう言ったのだ。 那緒の胸にどんよりとしたやるせなさが充満する。 自分が宗介を傷つけたことは、十分すぎるほどわかっている。これ以上、彼に何かを押しつけたいわけではない。だから彼の意思に従うべきだ――頭ではそう思っていても、心はぎしぎしと不満げに鳴っていた。 そして何より、那緒のポケットには、宗介に渡すべきものが入れっぱなしになっていた。 大隈から取り返した抑制剤。宗介に返さなければならない。そのためには、事の説明が必要だ。 やっぱり、もう一度、ちゃんと話さないと。 宗ちゃんが聞いてくれなくても。聞いてくれるまで、何回でも話そう。だいたい、ちゃんと謝ることすらできていない。 那緒はお守りか何かのように、抑制剤のシートをポケット越しにそっと撫でた。 「赤羽。この問題の続き解いてみろ」 「……あ、はい、……えっ?」 昼休み、いつものようにコンビニの袋を片手にどこかへ消えようとする宗介を、那緒は弁当を抱えて追いかけた。 行き先はだいたいわかっている、屋上への階段か、渡り廊下のそばの空き教室。他の生徒と顔を合わせずに昼食を摂れるところ。 那緒も度々そこで一緒に昼を食べるが、今日の宗介は「一緒に行く」と言えば「ついてくんな」と一蹴されそうだった。だから那緒は許可を取らずに黙ってあとを追ったのだ。 案の定、屋上へと続く施錠された扉の手前に、宗介は胡座をかいて座っていた。 そこにひょっこりと顔を出した那緒を鬱陶しげに見、小さく舌打ちをするも、追い返すことはなかった。 宗介がパンを齧っている横で、那緒ももそもそと弁当を口に運ぶ。お互いに無言だった。 階下から聞こえてくる昼休みの喧噪だけをBGMに、宗介の方が早く食べ終える。 それを見計らって、那緒は中途半端に残したまま弁当箱に蓋をした。 「宗ちゃん、あのさ」 「……んだよ」 「これ」 ごそ、とポケットに突っ込んだ手を、そのまま宗介に差し出す。怪訝な顔で受け取った宗介が、中のものを見て目を見開いた。

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