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#11 地獄変
「宗ちゃん、今週は来ないの?」
カウンターキッチンに立つ母の言葉に、那緒は回鍋肉を嚥下しようとしていた喉をぐっと詰まらせた。
もう三週間ほど、宗介とは些かぎくしゃくした関係が続いている。だがあれだけ入り浸っていた那緒の家にしばらく来ていないのは他に理由があるらしい。
「こっちの都合だ、別にテメーを避けてるわけじゃねえ」とちょうど今日、那緒は宗介に明言されたばかりだった。
「円佳ちゃんもしばらく会ってないわぁ。元気かな?」
「うん、円佳は元気みたいだよ。小学校楽しいみたい」
「よかった! 初めてうちに来たときは三歳とかだったのに、もう小学生だもんね、あっという間よねえ」
にこにこと言う母に合わせて那緒も笑顔を作るが、胸中は複雑だ。
那緒自身の気持ちとしては、以前のように宗介に来てほしい。実家に居場所を見つけられない宗介にとって、那緒の家がいつでも逃げ込める場所、安心して居られる場所であってほしい。
しかし宗介の立場になって考えてみると、どの口が言ってやがんだ死ねクソ野郎、と思う。
自分はすでに宗介の大切なものを奪ってしまったのではないかと気が気でなくなる。
母にそんな話はできないので、那緒は噛み砕いたキャベツと一緒に喉元の蟠りをぐっと飲み込んだ。
「そうだ、ねえ那緒っ」
「うん?」
コップに麦茶のおかわりを注いでくれながら母が声を弾ませる。那緒が顔を上げると、四十歳を過ぎたとは思えない、少女のようなはにかんだ笑顔で母は言った。
「パパがね、もうすぐ帰って来れそうなんだって!」
宗介は淡いピンク色のシーツが敷かれたベッドに腰掛けている。
爪切りで手指の爪をぱちん、ぱちんと順に挟みながら、円佳の声を聞いている。
「ささのは、ささやく、さしすせそ」
幼い声が節をつけて歌うように読み上げるのは、挿し絵のたっぷり入った国語の教科書だ。学習机に向かい、姿勢よく座った円佳は、短い両手をめいっぱい伸ばして机の上に教科書を立てている。
「ないもの、なになの、なにぬねの」
「はるのひ、はなふる、はひふへほ」
両手の指、合わせて十本。全て切り終えると宗介は爪先にやすりをかけた。昔はやらなかった。円佳と手を繋ぐようになってからの習慣だ。
「わいわい、わまわし、わいうえお」
三回読み終えた円佳は、椅子から降りてくると宗介にノートを差し出した。
表紙の裏に貼り付けられている、音読カード、なるもの。宗介はそこに日付を記入し、二重丸をつけてやる。
自分で丸をつけて提出していた、十年以上も前の日々を思い出した。きっと先生にはバレていただろう。腫れ物のように扱われていたから咎められなかったのだろうなと、宗介は今になって思う。
円佳がベッドの上によじ登り、宗介の前で小首を傾げた。
「そうくん、わまわし、ってなに?」
「あ?」
わまわし。輪回し、か? 何だそれ。わかんねえ。
宗介はスマートフォンを取り出す。わまわし、スペース、とは、で検索するも、ヒットしたページの説明文は「竹または鉄などの輪に、棒の先をあててころがしながら進んで行く遊びのこと」。
わかんねえ。どういう遊びだそれ。
「……あとでやってみるか」
「やる!」
嬉しそうに頷く円佳を後ろ向きに膝の上に乗せ、細い手をとった。
「お前も爪伸びてんだろ。切ってやる」
小さな指先にくっついている、小さな小さな桜色の爪を丁寧に切っていく。ぱち、ぱち、と自分のそれを切るときよりも幾分軟らかい音がする。
円佳は大人しくじっと座っていた。「わいわいわまわしあいうえお」と小声で詩を諳んじている。
左手の親指から始めて、小指、やすりがけまで終わったら、右手。また親指から。解放された左手を円佳がもぞもぞと握ったり開いたりする。
「円佳、来月誕生日だな」
「たんじょうび! 円佳ね、もうすぐ、七さいっ」
「こら、動くな。……欲しいもんあるか?」
宗介が言うと、円佳は少し考えてから「おさかな」と答えた。
「魚?」
「おさかな、見にいきたい」
「ああ、水族館か?」
一年ほど前だったか、那緒と友春と一緒に、円佳を水族館へ連れて行った。電車に乗って。円佳はいたく気に入った様子で、あのあとしばらくは魚の群れやイルカの絵ばかり描いていた。
「すいぞっかん! いきたい!」
「じゃあ夏休みになったらな」
「おさかなのぬいぐるみ!」
「わかった、好きなの買ってやるよ」
はい終わり、と円佳の手を放してやると、わあいと声をあげながら床にぴょんと飛び降りた。爪切りを畳みながら宗介はほんの僅かに微笑む。
七月十九日。
円佳が生まれ、宗介が自分を一度殺した、七年前の夏の日。
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