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#11-3
「葉山? なんであいつがそんなこと知ってんだよ」
「あたしが葉山さんから直接聞いたんじゃないの。葉山さんが電話で話してたの……たぶん相手はお父さんだと思う」
宗介は幼い顔を思い切り顰めた。
つい半年ほど前に新しくやってきた男性の家政夫、それが葉山だ。まだ三十代半ばと若い。
鬼塚家では両親の結婚当初から年輩の女性の家政婦を雇っていたが、引退してしまった。そのときは宗介ですら寂しく思った。きょうだいみんな彼女にミルクを飲ませてもらったのだ。
前任からの紹介で採用されたという葉山は、確かに家政夫としての仕事を申し分なくこなした。まだ幼い下の子供たちに対する面倒見も良く、弟妹たちは葉山に懐いた。
だが宗介だけは、初めて顔を合わせたときから、葉山に漠然とした不信感を抱いていた。
「あいつの言うことなんか信用できるかよ」
吐き捨てるように呟いた宗介に、藍良と光希は顔を見合わせた。肩を竦めて藍良が言う。
「宗介、なんでそんなに葉山さんのこと嫌なの? 優しいじゃない」
宗介は答えに詰まった。何せ自分でも理由がわからないのだ。
幼稚園の頃から問題児扱いされている自分にも、葉山は分け隔てない態度で接してくる。
しかし、もっと本能的な部分で嫌悪感が拭えなかった。それをどう言葉にしていいのか、宗介は少し迷った末に口を開く。
「なんかあいつ、すごく嫌なにおいがする」
「そうかな? 別に臭くないと思うけど」
「何のにおいかわかんねえ。でも、あいつの近くにいると、気持ち悪くなってきて吐きそうになるんだよ」
藍良が「それ、本人に言っちゃだめだよ」と眉を下げた。
「とにかく……このことは、まだあたしたちだけの秘密ね。絶対誰にも言わないこと。いい? 光希」
「うん、わかった」
「もしかしたら間違いかもしれないし。お母さんやお父さんにも、変なこと聞いちゃだめ。わかった? 宗介」
「……わかった」
やがて七番目の弟、優真 が生まれた。
新生児を抱いて病院から帰ってきたとき、母は一人だった。父は会社だ。それを見た宗介は複雑な気持ちになった。
思い返してみれば、今までもそうだったような気がする。自分や、藍良や光希のときはどうだったのだろう。そもそも父と顔を合わせる機会は少なかった。多くても週に一度ほどしかこの家には帰ってこない。
母は数日休んだだけで仕事に復帰し、今まで通り、育児はほとんど家政夫に任せていた。
葉山は前任の彼女と比べれば新生児の扱いには不慣れだったが、特に不都合が起こることはなく。
そして優真が月齢八ヶ月を迎える頃だった。
宗介が学校から帰ってくると、玄関で葉山が待っていた。眼鏡の奥の目を細めて「おかえりなさい、宗介さん」と笑いかける葉山に、宗介は無愛想に「ただいま」とだけ返事をする。
その横をすり抜けて中へ入ろうとすると、葉山の手に阻まれた。見上げた葉山は笑みを貼りつけたままだ。
「今、ちょっとおうちの中に入れないんです。お外で遊んできてください――さ、ランドセルを預かりますから」
柔らかな口調の中に、どこか有無を言わさぬ圧があった。宗介は怪訝に思いながらも背負ったランドセルを降ろす。
葉山に手渡したそのとき、家の奥の方から物音がした。何か大きなものが割れたような、ガチャン、という音。
宗介は反射的に身を固くしてから、廊下の先へと目を向けた。
「……何の音?」
「テレビですよ」
葉山は答える。嘘だ。明らかにそんな音ではなかった。宗介はそこで、足下にある見知らぬ靴に気づく。
男性物の大きな革靴だ。母のものでないことはわかった。父だろうか。父の靴のサイズは知らない。
「誰の靴」
「奥様のお客様です」
「母さん、いんのか?」
「ええ。お客様と大切なお話をしていらっしゃるんです」
だから中には入れないんですよ。そう言って葉山は玄関の外へと宗介を追いやろうとするが、立て続けにまた違う音が聞こえてきた。
優真が泣き出したのだ。
奥の部屋で寝かされていたのが、先程の音で目を覚ましてしまったのかもしれない。葉山は少しばかり慌てた顔になると、玄関の扉を開け、些か雑な手つきで宗介の小さな身体を押し出した。
「宗介さん、わかりましたね? お外で遊んできてください。奥様のお言いつけですからね」
そう言い残して葉山は扉を閉めた。内鍵の音はしなかった。
宗介は暫しその場に立ち尽くす。あの大きな音と、優真の泣き声が頭の中で木霊する。
何かが隠されていて、そしてその何かを、自分は知らなくてはいけないような気が無性にした。
先程開けたばかりのドアノブにもう一度手をかける。その先に、今度は葉山の姿はなかった。
音をたてないよう静かに扉を閉め、靴を脱ぎ捨てる。
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