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#11-4

奥ではまだ優真が泣いていた。 あやして寝かしつけているか、オムツでも替えているか、とにかく葉山が優真のところにいるであろうことは明らかだったので、宗介はそれを避けるようにして廊下を足早に進む。 耳を峙てると、どこかから微かに物音が聞こえた。引き寄せられるように音の出所を目指していくと、辿り着いたのは母の寝室だった。 父とは別になっている母の寝室は、他の部屋よりも重々しいドアがついている。それは防音対策の一環であったが、もちろん宗介は知らない。そしてその部屋に施された防音対策はあくまで簡易的で、完璧なものではなかった。 母の声がする。上擦った声と荒い呼吸音。 宗介は、母が何か苦しんでいる、と思った。 迷いながらもドアノブに手をかける。そこにも鍵はかかっていなかった。 開いた隙間から、高級なベッドのスプリングが揺れる音と、ぐちゃぐちゃと粘着質な水音。そして。 「あぁ、あっ、あ、あ、っあ」 母の声はまるで、獣がいたぶられて鳴いているように宗介には聞こえた。乱れきっていて、低く凛として響く、いつもの印象はどこにもない。 大きなベッドの上に、こちらに背を向けた大きな男の裸体。激しく身体を揺すっている。その両肩に抱えあげられた二本の脚。 ミルクを煮詰めたような濃いにおいが漂ってきて、思わずえづきかけたとき。 背後から伸びてきた大きな手に、口元を塞がれた。 見開き振り向いた目に葉山が映る。ドアの陰に隠れるように身を抱え込まれ、宗介は咄嗟に抗うことすらできなかった。 葉山は膝を折って屈み、宗介の耳元で囁いた。 「奥様が悲しまれます。宗介さんが言うことを聞いてくれないから」 耳に吐息があたり、宗介の背筋を悪寒が走る。息を吸うと葉山のにおいが否応なく肺に入ってきた。宗介の胃をむかむかさせる、何かの腐ったようなにおいだ。おぞましさに小さな身体が総毛立つ。 開きっぱなしのドアから漏れる声に紛れるようにして、葉山はひそひそと続けた。 「バース性については学校で教わったでしょう。あれがオメガのヒートです」 ヒート。確かにその言葉も習った。しかしあくまで小学生向けの教育だ。オメガの身体に周期的に訪れる、子供をつくるための準備期間。その程度の知識しか宗介にはなかった。 かつて藍良の言ったところの「ケッコンだけではない、ほかのこと」。それも何となくしか知らなかった。宗介にとって興味深い話題ではなかったのだ。 「仕方ないんです。オメガとはああいう生き物なんです」 なおも囁き続ける葉山の言葉が、母の声と混ざって宗介の脳に注ぎ込まれる。「あっ、あ、いく、いくぅっ、っあぁっ」何かどろどろした不味いものを飲み込まされているようで、宗介は悪寒が止まらない。 「甘いフェロモンを撒き散らして、アルファを誘惑するんですよ」 葉山の口調は、例えるならば。動物園で生き物の生態を解説する飼育員のように淡々としていた。 「本能的なものです。奥様は今、知性あるいつもの奥様ではなくて――ただの発情したオメガ」 ひときわ大きく、尾を引くような長い喘ぎが聞こえて、宗介の耳にこびりついた。はあはあと上がりきった呼吸音が重なっている。それを最後に葉山が立ち上がり、そっとドアを閉めた。 「こんな姿を見せたくないから、子供たちは中に入れるなと、きつく言われておりましたのに。宗介さんは本当に難しいお子様です」 宗介の細い肩に手を添え、ドアに背を向けるよう身体の向きを変えさせる。 「忘れてくださいますね? でないと私、クビになってしまいます」 ゆっくりと宗介の背を押して、葉山は囁いた。宗介は促されるままにふらりと一歩、足を前に踏み出し、そのまま弾かれたように走ってその場から逃げた。 真っ直ぐに廊下を突っ切り、玄関から外へと飛び出す。 「……え、宗ちゃん、何してんの?」 顔を上げると、野球部の練習を終えて帰ってきた那緒が、泥まみれの練習着のまま立っていた。 那緒の家の玄関先に俯いて座り込んでいた宗介は、空がいつの間にかすっかり暗くなったことにも気づいていなかった。 口をぽかんと開けたままの那緒を見上げる宗介。どこか虚ろなその様子に、那緒の方が狼狽えだす。 「え。なんか変だよ。大丈夫? どっか痛いの?」 「……ナオ」 「なに、おなか痛い? トイレ?」 「違う」 じゃあどうしたの、と途方に暮れたような那緒の顔を見つめ返して、宗介はひゅっ、と細く息を吸い込んだ。薄い唇が冷えて青くなっているのを微かに震わせる。 「今日、泊めてくんねーか」

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