61 / 111
#12-6
「……ナオくんには教えてあげよっかな」
光希が独りごちるように少し俯いて、睫毛の影が落ちるその横顔に、那緒は黙って言葉の続きを待つ。民家の庭に大きな向日葵がみっつ咲きかけていて、禍々しい形の黄色い眼に見られているような気分になった。
「あいつさ、家、出されそうなんだ」
「……え」
やけに平淡な調子で光希は言い、那緒はその短い言葉を耳の中で一度反響させてから、戸惑いの声を漏らした。
家を、出される。宗介が自ら家出したことは何度もあるが、それとは話が違うことは那緒にもわかった。しかし。
「それって、どういう……」
聞き返そうとしたところで、光希がぱっと顔を上げた。那緒に向けられたアーモンド型の目には、悪戯っぽい光が宿っている。
「やっぱ、タダじゃヤダ」
「はっ?」
「俺にはどうでもいいけど、ナオくんにとっては価値のある情報でしょ? 俺が言ったってバレたら宗介にも殴られそうだし、タダでは教えられないなー」
一転して楽しげな声音に戻った光希に面食らいつつ、那緒は言い返す。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ?」
すると光希はにんまり笑い、片手を皿のようにして那緒に差し出した。求められたのは那緒にとっては予想外のものだった。
「友春くんの連絡先!」
「……は? トモの……?」
「LINEのIDとー、電話番号もつけてくれたらオマケしちゃう!」
軽い口調で続ける光希に、そんな八百屋さんみたいに……と突っ込みたくなるのを那緒は飲み込んだ。
「何でトモの連絡先なんか知りたいの?」
「連絡したいからに決まってるじゃん」
「や、だから何で?」
「そこはナオくんには関係ないよ。教えてくれるんなら、俺も知ってること教えてあげる」
ね、と光希は小首を傾げる。
那緒にとってその条件は訝しいことこの上なかったが、餌のようにちらつかせられた手がかりを逃がしたくない気持ちの方が勝っていた。眉を寄せた怪訝な表情で、光希をじっと見つめる。
「……変なことに使わないよね」
「使うわけないよお」
年相応な笑顔を浮かべる光希。那緒はひとつ頭を掻いた。
いくら兄と仲が悪いとはいえ、その友人に害をなすようなことはしないだろう――ほとんど自分にそう言い聞かせるようにしながら、那緒の手がポケットの中のスマートフォンに伸ばされる。
昇降口で光希と別れた那緒は、ほとんど踊るような足取りで遠ざかっていくその後ろ姿に、一抹の不安を抱えていた。
――教えてよかったのか? 俺、もしかして、とんでもないことをしたんじゃ……?
脱いだ靴を下駄箱に入れるあいだも上の空だ。その脳裏には、個人情報を売られ激怒する幼馴染の顔が、あまりにもありありと浮かんでいて、
「おーす」
「うわあっ」
背中を叩かれて飛び上がる。叩かれるといっても、ごく軽く小突かれる程度の力だ。大袈裟な反応の理由は、その声が今まさに思い浮かべていた人物のものだったから、に他ならない。
「とっ、トモっ……おはよっ!」
「……ビビりすぎじゃない? 何、どうした」
「いや別にっ!? 何でもないよっ!」
いつも通りマスクで顔の半分以上を隠した友春は(夏日なのに。見ている方が暑くなってくる)、唯一露わになっている目に思いきり怪訝さを滲ませていた。
動揺を丸出しにした那緒の反応に「あっそ」とだけ返して、さっさと上履きに爪先を入れる。
恐らく追及するのも面倒だったのだろう、友春の性格に那緒はこのときばかりは感謝した。
いずれはバレて何らかの報復を受けることになるかもしれないが、今更後悔したところで遅い。那緒は友春の背に向け低い位置で合掌し「ごめんなさい」と口の中だけで呟くと、この件について考えるのをやめることにした。
それより、宗介だ。
光希の話は決して長くなかったが、那緒にとってはおいそれと受け止めきれない程度の重さがあった。ごく人並みの容量しか備えていない那緒の頭は簡単に占められて、その狭間に細々と思考を巡らすことしかできなくなってしまう。
脳内がぐるぐると、まるで大きなへらでかき混ぜられる鍋のようになり始めたところで、目の前の友春が不意に振り向いた。
「そういえばさあ、お前」
「は、えっ? 俺? なに?」
「……いや、パパ帰ってくるっつってたじゃん。今日だっけ?」
別にちょっと思っただけなんだけど、と続く友春の言葉に、那緒は思わず頭を抱えた。
そうだ、それもあった。なんて日だ、今日は授業にひとつも身が入る気がしない。
ともだちにシェアしよう!