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#13 霹靂

「おかえり」と微笑む父の顔は、鏡で見る自分と、やはりあまり似ていなかった。 「ただいま」と答える自分は、不器用だからたぶん、上手く笑えていない。 五年前の、あれも夏だった。丁度今日と同じような、暑いが風の爽やかな日だったのを那緒は覚えている。 中学に上がって最初の夏休みを目前にしたその日、那緒は陸上部の顧問から烈火のごとく激しい説教を喰らった。 引き金となった出来事が何だったのかは忘れたが、日頃から那緒の鈍臭さに苛立ちの声を上げることが多かった教師だ。 言われた言葉は今でもはっきりと反芻できる。「幼稚園児でもできるぞ。お前はどうしてそんななんだ」 うなだれて自分のシューズの爪先を見つめながら、那緒は思った。「まったくだ。俺はどうしてこんななんだ」 夕食は味がしないし風呂ではリンスを二回してしまった。 ドジ、鈍感、注意力が足りない、思慮も足りない、思いきりが悪い。顧問の教師だけではない、これまでの短い人生の中で指摘されてきた欠点の数々が、読み込み中のパソコン画面に出てくる円形のマークみたいに、頭の真ん中でずっとくるくる回っている。 顧問の教師はバース性を引き合いに出したわけではないけれども、那緒自身のコンプレックスはそれと密に結びついていた。優秀な人間が多いアルファのはずなのに、自分の無能さときたら。 あくまで個人差のある話だと頭ではわかっているが、アルファという性は那緒にとって僅かな希望でもあり、自己嫌悪の原点でもあった。 眠れずに寝返りを繰り返すうちに喉が渇いて、ベッドを抜け出し真っ暗なダイニングに滑り込む。 母はとうに寝静まっており、父は海の向こうだ。適当なグラスにミネラルウォーターを注ぎながら、リビングの隅に置かれたチェストにふと目が留まった。 那緒の腰ほどの高さのそれは、右側はバネ式の扉、左の半分は三段の抽斗になっている。 そのうちの一番下、もっとも大きな抽斗には、書類が保管されていた。母が医療費の領収証を仕舞っていたり、火災保険の書類をそこから取り出したりするのを見たことがあった。 とはいえ具体的に何が入っているのかを知っていたわけではないのに、そのときの那緒がそこに突然意識を引かれたのは、ある種の天啓のようなものだったのかもしれない。 グラスをシンクに置くと、那緒はふらりとそれに歩み寄った。抽斗は予想外に重く、ぎっしり収められた紙の量を見た時点で、普段の那緒であれば諦めそうなものであったが。 隙間に無理矢理手を入れ、那緒は掴める限りの紙束を引っ張りだした。まだ抽斗の中には半分以上残っている。同じ動作を繰り返して、床にふたつめの山をつくる。 手が誰かに操られているように、どこかぼんやりとした心地で、那緒は奥のほうにあった書類を何枚かあらためた。 探していたのは自分の修学前健診の結果通知。バース性の診断結果がそこには記されているはずだった。 ここにあるかどうかも知らないそれを見て、自分がアルファだということを確かめたかったのか、それとも否定されたかったのか。それは那緒にもよくわからない。 とにかく那緒が知りたかったのは自分自身のことで、それ以外を探るつもりなんて毛頭なかった。 バース性再検査。とある書類の冒頭にその文字列を見つけたときには、心臓が止まったかと思った。 それが父親の再検査の結果を記したものだなんて予想もしなかった那緒の目に、続いて「オメガ」の表記が飛び込んでくる。

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