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#13-6

まだ姉の藍良しか自分の個室をもっていなくて、きょうだい六人でふたつの子供部屋を使っていた。男児四人に女児二人。宗介の学習机もそこに据えられているが、それは現在では全くというほど使われていない。 「もお、またあたしの部屋にいる」 自室の隅でちんまりと座り込む弟の姿に、藍良は「勝手に入るのやめてよね」と溜め息まじりに文句をつけた。宗介は本棚から勝手に取り出した薄いソフトカバーの本から顔を上げる。 「この本クソつまんねー」 「はぁー? その良さがわかんないとか、これだから男子は」 思いきり憤慨した声を出して、藍良はお気に入りの本を弟の手から取り上げた。手持ち無沙汰になった宗介は両膝を抱え直してさらに小さくなる。 藍良が緑色のタイを解きながらクローゼットを開けた。 「着替えるから見ないでよね」 「誰が見るかよ。バーカ」 憎まれ口を叩きながら、抱えた膝の間に顔を埋める。それを確かめるより先に藍良は白いセーラー服を勢いよく脱いだ。 「宗介も明日で学校終わりでしょ? どっか遊び行こっか」 「どっかってどこだよ」 「んー、遊園地とか、水族館とか?」 「いらねー」 「宗介が行きたいとこでいいよ。あたしが連れてってあげる」 視界をシャットアウトしているぶん、衣擦れの音が大きく聞こえる。宗介は少し考えてから返事をした。 「別に……どこもない」 「ん、そっか」 終わったよ、という声に宗介は顔を上げる。部屋着姿になった姉が、机の前で鞄を開けていた。教科書とノートを取り出しながら、「来月には生まれるんだって」と何気ない調子で口にする。 「妹だって」 「……さっき光希に聞いた」 「どう思う? あたしはね、半分、楽しみ」 椅子を引く藍良の横顔には、曖昧な微笑が浮かんでいた。苦笑いにも似たそれが、ちらりと横目で宗介に向けられる。 「もう半分は、怖い」 「怖い?」 「うん」 宗介の鸚鵡返しに頷くと、それきり藍良は口を噤んだ。 姉の言葉がしっくりきたような、でもどこか腑に落ちないような気持ちで、宗介は自分の膝に視線を落とした。 俺も怖いのかもしれない。違うかも。よくわからないから何も言えなくて、そして藍良もきっと自分の返事を待っているわけではないのだなと、思った。 私立中学に通い始めた姉は、結構な量の宿題を毎日こなしているらしい。今日も机に向かうと教科書を傍らに何冊か積みノートを開いた。 シャーペンの芯の先が紙面上を叩く音を聞きながら、時折短い言葉を交わす以外には口を開かず、姉と同じ空間でぼんやり過ごすのが宗介は好きだった。この家の中で唯一安らげる時間といってよかった。 それを破ったのは、虫の羽音のような小さな異音。 藍良の携帯電話の発する、着信を知らせる振動だった。 ぱっと顔を上げた藍良は、春に買い与えられたばかりのそれを手にすると、上半身を捻って宗介に振り向いた。 「友達から電話だ」とだけ言って、携帯を耳に当て喋り始める。 出て行けと言われたわけではないが、家族以外に向けられた姉の声を聞くのは妙な違和感と罪悪感があったので、宗介は立ち上がり一度部屋を出ることにした。 時刻は六時を回っている。弟たちの部屋から声が聞こえていたが、そこへ立ち入る気にはならなかった。 家族の気配を慎重に伺いながら廊下を進んでいくと、リビングのドアが開け放たれているのが見えた。そっと近づき室内を覗き込む。 ダイニングキッチンとひと続きになったリビングには、大きなソファとテレビ、そして広いベランダへ出る掃き出し窓がある。 仕事を家に持ち帰ることの多い母は、大抵いつもソファで作業をしているのだが、今はその姿がなかった。代わりに窓辺でレースのカーテンが大きくはためいているのに宗介は気づく。誘われたような気がして、ふらりとリビングへ足を踏み入れる。 窓の外は夕暮れ。遮るもののない空が、鮮やかに深い橙に焼かれて染まっている。 そこに黒いインクを落としたように母の後ろ姿があった。手摺りに片肘をつき、長めの髪は風を受けて揺れている。 薄いレースのカーテンの向こう、その鮮明なコントラストに宗介は息を飲んだ。 しかし立ち尽くしていたのは、母の影が動くまでのほんの数秒のことだ。 部屋の中へ戻ろうと振り向いた母が、宗介の存在に気づいた。 片手でカーテンを押さえ、逆光になったその顔が穏やかに笑む。「どうした?」とやわらかな低い声。宗介は肩を強張らせて、眉間に力を入れ、口を開いた。 「……何してんだよ、そんなとこで」 「ん? 仕事が一段落したからさ、外眺めてただけだよ。夕焼けがすげー赤かったからさ」 ほら、と手招きをされて、わざと大股で窓へ近づいていく。急に操り人形にでもなったかのように、体がどこか自分の意志と噛み合っていないような気がした。

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