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#13-7
靴下のままベランダに出たのを、笑いながら咎められた。
柵の上から顔を出して外を見る。右手側のずっと向こうで太陽があかく燃えていた。
「なあ、宗介に父さんの秘密、いっこ教えてやるよ」
隣に立った母が、悪戯っぽい口調で言う。父の話題は宗介にとって歓迎されるものではなかったが、秘密という言葉が気になり黙っていると、母は「あいつ高所恐怖症なんだ」とくつくつ笑った。
「俺は昔っから高いとこ好きだから、マンション買うときも、できるだけ上の階がよくてさ。なのにあいつが三階で十分だとか言うから、すげームカついてさ。俺が結婚やめるって騒いだら、やっと白状したんだよ。あいつ顔に出ねえから、俺も気づかなかったんだよなあ」
「……うち九階じゃんか」
「俺は二十階くらいに住みたかったんだよ。お互い妥協の末の九階だよ。あいつ、うち帰ってきても窓のそばには絶対立たねえから、今度よく見てみ?」
今度、というのがいつ訪れるのか宗介には見当がつかない。父親を家でじっくり観察したことなんて過去にも一度もない気がした。たぶん母も承知の上なのだろうと思って、宗介はそれ以上考えるのをやめた。
代わりに母に尋ねる。ここ一年ほどずっと抱えていた疑問が、驚くほどすんなりと声に出てきた。
「なんであいつと結婚したんだよ」
ベランダの柵を両手で掴んだまま、母の端正な顔が茜色の光を受けているのを見上げる。母は少し悩むそぶりを見せてから答えた。
「なんでと言われたら、親が決めたから、って答えになっちゃうけどな。それは本質とは言えないな。俺はあいつと結婚してよかったと思ってるよ」
「なんで。あんなやつなのに」
「ま、そう思われても仕方ないな。でもさ、あいつにもいいところ、実はいっぱいあるんだぜ?」
「……あいつのこと、嫌いなんじゃねえの?」
短く声をあげて母は笑う。
「好きだよ」
その言葉と表情に、宗介は視線を柵の向こうへと彷徨わせた。
母は父を好きじゃないから他のやつと子供をつくったのかと思っていた。だってあれは、浮気、っていうんだろ。違うのか?
よくわからない。
「お陰で宗介にも会えたしな」
大きな手がまるい頭に乗せられる。温かさと、ごつごつした指の骨の感触が伝わった。
「この子を入れたら八人。圭介と結婚したお陰で、俺には大事なもんがこんなにできた」
もう片方の手で腹部を撫でながら。母の声はせせらぎのようで、しかし段々と宵に向かっていく夕空を見つめながら、それは世界で唯一の音になっていく。
宗介の短い髪が撫でられてくしゃっと軋んだ。
「お前たちは俺の、世界で一番大事な宝物だよ」
ずっと下のほうで犬が吠えるのが聞こえて、宗介ははっと瞬く。視界の外れを鴉が飛んでいく。
混乱してきた。
母は父のことが好きだと言う。
自分たちきょうだいが大事だと言う。
それは父と結婚しなければ手に入らなかったと言う。
「父親、あいつじゃねーのに?」
思うと同時に声が出ていた。母の手が一瞬硬直したように感じたが、気のせいだったかもしれない。すぐに静かな返事がある。
「みんな俺と圭介の子だよ。血の繋がりは関係ない」
「……っ、関係なくねーだろ。おかしいだろ、そんなの」
柵から両手を離し、宗介は母の手を振り払った。靴下のままの足で数歩、後ずさるようにして母から距離をとる。
血が一気に頭に昇って、顔がカッと熱くなった。
宗介、と母が宥めるように呼ぶが、それに応えることを心が拒んだ。言いたいことも問い質したいこともたくさんあるのに、言葉にするのは幼い宗介にはあまりに難しい。
宗介の耳にはあの日の母の嬌声がこびりついている。
それは、ただ欲だけに忠実になった獣のような声なのだ。
新しい生命が宿るということは、ひとが欲に支配された結果なのだ。
宗介にはそれがおぞましくてたまらないのに、言葉にならない。
「……地獄だよ」
胃の中身が今にも逆流しそうだ。唾を飲み込むが、どろどろした不快なものが湧きあがって止まらない。腹の底から繰り返し、スプーンで混ぜて掬いあげられるみたいに。
「あんたは、産みたくて産んだのかもしんねーけど。生まれさせられた俺たちは苦しいんだ。フツウの家族のふりもできねえくせに、何が宝物だよ。ふざけやがって」
嘔吐する代わりに感情のままそのどろどろを撒き散らした。吐瀉物が母を汚す。いつの間にか夕陽は地平線に沈んでいた。茜の名残に照らされた空に、一秒毎に夜の帳が下りてきている。
呼吸が苦しかった。
「こんな家、地獄だ」
そう吐き出しても喉に詰まったどろどろが取れなかった。
もう母の顔を見上げることは宗介にはできなくて、俯いたまま衝動的に足を踏み出す。部屋の中に戻ろうと勢いづいた身体に、母の手が伸びてきた。
悲痛さの滲む声で「宗介っ」と名前を呼ばれて、頭の芯がさらに煮える。
「触んな!」
差し出された手が肩に触れるより先に、強く振り払った。
その衝撃で母の身体が大きく揺れる。
そこからはスローモーションに見えた。見開かれた宗介の目の中で、影がゆっくり傾げる。倒れこんでいく。
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