そのあとのことは覚えていない。 いつの間にか宗介は病院にいた。 青白い蛍光灯が照らす廊下で、藍良と二人、硬いベンチに座っていた。 膝の上に小さな拳を握った宗介の隣、藍良は毛布に包まって俯いている。見覚えのない赤と茶色のチェック模様。病院が貸してくれたものだろうか。 宗介に意図せず突き飛ばされた形になり、母はベランダで転倒した。臨月の身体には良くない転び方だった。藍良が気づいて救急車を呼び、宗介を引きずるようにして同行した。母は今、堅く閉ざされた扉の向こうにいる。 僅かに触れ合っている肩から、藍良の震えが伝わっていた。昼間の暑さが嘘みたいに空気はひんやりと冷たくて、でも藍良が寒がっているわけではないのはわかった。 「もし、お母さんが死んじゃったら」 低い呟きが零れた。毛布の中で自分を抱きしめて、藍良のシルエットはずいぶん小さくなっている。 「あたし……宗介のこと許せないかもしれない」 毛布の下から伸びた藍良の脚は、部屋着の黒いハーフパンツのままだった。いつもの藍良ならきちんと着替えずに外に出るのは嫌だったろうなと、宗介は場違いなことを思った。 「でも」消え入りそうな、ほとんど吐息のような声が、宗介の鼓膜に届く。 「……言ってくれて、ありがとう」 初め、何のことだかわからなくて、宗介は姉のほうを見た。自分より少し明るい色の髪が、その表情を完全に隠してしまっている。宗介は自分がベランダで母に吐いた言葉を思い出した。 聞いてたのか、と言ったら藍良は小さく頷いた。 「あたしも、ずっと同じこと、考えてた」細い糸を手繰るように、切れ切れに言葉が紡がれる。「考えてたけど……言えなかったんだ」 チェック模様の毛布の下から藍良の右手が伸びてきて、宗介のひとまわり小さな左手に触れた。 「ごめんね、宗介」 不自然なほど冷たい指先を細かく震わせながら、藍良は二度「ごめん」と繰り返した。押し殺した嗚咽が漏れる。 「お姉ちゃん弱虫でごめん……」 最後のほうは涙声になってほとんど滲んだ。宗介は拳にしていた手を開いて、力なく縋ってくるばかりの藍良の手を握り直す。ぐず、と鼻を啜る音。濃い灰色の床。 時間の感覚がない。弟妹たちは家にいるのだろうか、夕食はちゃんと摂ったのだろうか。ぼんやり思いを馳せる。藍良に泣き止んでほしくて、宗介は繋いだ手に力を込める。 ポケットの中で無機物が振動した。 病院の冷たい廊下ではなく、自宅のベランダでもなく、ビルの展望台に宗介は立っている。 取り出したスマートフォンの画面を確認すると、弟の名前が煌々と表示されていたので、無視を決め込みポケットに戻した。着信はしばらく続いたがやがて止んだ。 「ゆうやけ、終わっちゃったねえ」 円佳が呟く。ささくれひとつない手がもぞもぞ動いて、宗介の腕ごとゆらゆら揺れる。 地平の際にひとすじの朱を残しただけにして、空は淡い紺碧へと変わっていた。影になったビル群が眼下に立ち並んでいて、人工的な黄色っぽい光があちこちで無限に瞬いている。 「そうくん、元気ないの？」 円佳の、自分と同じ色をした大きな瞳に見上げられて、宗介は苦笑を零した。答える代わりに尋ねる。 「円佳。父さんと母さんのこと好きか」 「うん、すき」 迷うことなく頷く妹のまるい頬、長い睫毛。 「円佳ねえ、みんなすきだよ。そうくんは？」 繋がれた手をそっと離し、円佳の頭の上に乗せた。真っ黒で癖のない髪を梳くようにして撫でながら、宗介はそれにも答えないで、「なら大丈夫だ」と言った。 「俺たちもみんな、円佳のことが好きだよ」