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#14 深海

待ち合わせは駅に朝九時。 その二十分前に自宅を出た那緒は、広がる晴天に目を細めた。午後から天気が崩れるという予報が信じ難いほどだ。 駅より互いの家の方が近いのだが、どこで覚えたのか、場所を決めて集合するというのが円佳の希望らしく。 木造ふうになった小さな駅舎が見えてくると同時に、那緒は兄妹の姿を見つけた。シンボルツリーの前に設えられた長いベンチの、ちょうど木陰になる左側の半分に、ふたり並んで座っている。 もう少し近くまで行くと、円佳も那緒に気づいて立ち上がった。木陰からぴょんと飛び出してきて、 「ナオくん、おはよお!」 無邪気な満面の笑みで言うものだから、抱きしめたいような衝動に駆られる。現実には「おはよう、円佳」と笑い返すだけに留めるが。 レモン色と白のボーダーのワンピースに、若草色のリボンのついた麦わら帽子を被った円佳は、どこから見ても完璧な女の子だった。大切に育てられていることが、出で立ちだけでなく表情からも見てとれる。 ベンチに座ったままその様子を眺める宗介は、真っ白いTシャツに細身の黒いパンツという、一切の無駄を削ぎ落としたような格好だった。いつもはポケットに財布ひとつだが、珍しく小さなボディバッグを斜め掛けにしている。 「ナオくん、朝ごはんなにたべた? 円佳はねえ、オムレツ!」 「お、いいなーオムレツ。うちはね、目玉焼きと豚汁だったよ」 「ジュースものんだ? 円佳ね、オレンジジュースのんだ」 「俺はね、カルピス飲んだよ」 他愛もない会話をして待っていると、のんびりした足取りで時間ぴったりに友春がやって来る。アイスグレーの開襟シャツが涼しげなのに、顔を覆ういつも通りのマスクがアンバランスだ。 「トモくんおはよ!」 「おはよ、円佳ちゃん。どうしたの、そんなにおめかしして」 「うふふ、かわいいでしょー」 「うん、可愛い。どこのお嬢さんかと思った」 円佳はワンピースの裾を持ち上げてくるりと一回転してみせる。その麦わら帽子のてっぺんを、友春は何食わぬ顔でぽんと撫でた。 那緒は友人の言動を目の当たりにして慄く。 自分でさえ今日の円佳にスキンシップを図ることはなんとなく躊躇されたのに、まさか友春が易々とこんなことをしてのけるとは。許されるんだったら俺も可愛いって言えばよかった。なんか犯罪臭くなる気がしたんだ。 電車に揺られた先の隣市、最寄り駅から歩いてすぐのところに、目的地の水族館はあった。 普段は乗らない路線のボックス席で過ごすおよそ一時間は、那緒の予想していたよりもあっという間だった。 高い位置に昇った太陽が力強く照りつけている。暑い暑いと言い合いながら到着した水族館は、やはり夏休みだからだろう、平日だというのにそこそこ混んでいた。 券売機で円佳は「小人」の表記にはしゃぐ。「円佳、こびと!」と言いながら入場券を受け取り、宗介の手を引いて入場口へと足早に向かった。 あちらこちらで円佳よりも幼い子供が駆け回り高い声をあげている。友春が早くも疲れた表情を見せているのに苦笑しつつ、那緒も兄妹のあとを追った。 館内は照明が絞られており、入ってすぐは外との明暗差で視界がぼやけた。目が慣れてくると、壁に描かれた魚やペンギンのキャラクターの絵や、施設の成り立ちを紹介しているらしいパネルに迎えられる。 数メートル先を曲がってからが本格的な展示のスタートなのだろう、奥から青い光の漏れているのが見える。進んでいくと急に緩やかな冷気が肌を撫でた。去年訪れた地元の小さな水族館では得られなかった非日常感に、那緒の心は少し沸き立つ。 青い光の正体は、トンネル状になった水槽越しの照明だった。 海中から空を見上げたかのように、頭上の光は神々しく白い。それが深い青へとグラデーションになっている様は、水槽の外側が青く塗られているためだろうと予想はできるのに、あまりにも神秘的な色合いで揺らめいているので一瞬、本物の海ではないかと錯覚した。 大きさの様々な銀色が宙を泳いでいる。足下の床にまで乱反射が不思議な模様を描いている。 圧倒され、足が竦んだようになっていた那緒は、隣に立つ友春の「おー、エイだ」という暢気な声にはっと我に返った。友春に倣って見上げると、巨大なピザ生地のような白っぽいものが、滑るように頭上を旋回していく。 「エイって毒あるんだっけ」 「尻尾、毒針なんだよね、確か」 「あんな間抜けな顔してんのにな」 「あの顔っぽいとこは何なの、口?」 「知らね。エラとかじゃん?」 どこを見ても同じように魚でいっぱいなのに、つい水槽のあちらこちらを見回してしまう。 通路の前方にいる円佳が、自分と同じようにきょろきょろしているのがふと目に入った。 傍らにいる宗介の白いシャツが青い光に染められていて、そのまま模造の海に溶けていってしまいそうだった。

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