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#15 燦燦と青

プリントの隙間にびっしりと走り書いた数式の計算をかなり序盤で間違えていることに気づき、那緒は肩を落とした。 三ヶ月ほど前に必死で覚えた公式を使えたところまではよかった。だが導き出される解の辻褄が合わず、数字との睨めっこがかれこれ五分は続いていた。 見つけてみれば単なる凡ミス、それも九九の間違いだ。情けない気持ちで数分前の自分を呪いながら、那緒は数式をいちから書き直す。 ペンを走らせる音だけが響く、静まり返った教室には、那緒のほかに十数人の生徒が集まっていた。それに教師が一人。 開け放たれた窓の外からは野球部の太い掛け声が聞こえている。吹奏楽部の奏でる管楽器の音も。 足かけ十日続いた数学の補習だが、今日で終わりだ。明日からは炎天下を学校まで歩いてこなくていいし、クーラーもない教室で、凍らせたペットボトルの冷たさだけを頼りに数字と向き合わなくてもいい。 一緒に補習を受けているメンバーに仲の良い友人がいないのも辛かった。課題は大量に出されたが、家でできるのだからずっとマシだ。 今解いているのは補習の総まとめとして配られたテストだった。終わった者から提出して帰ってよし、とのこと。 九九のミスを修正すると、問題は笑えるほど簡単に解けた。途中計算の長さはさっきの半分以下だ。 すっきりしたような虚しいような複雑な心境になりながら、那緒は一度背を伸ばして、凝り固まった肩を小さく回した。 高校生活も三年めの夏となれば、遊び呆けてもいられないような雰囲気が漂い始める。 夏休みに入る前、担任の教師は「受験で後悔しないような夏休みの過ごし方を考えろ」と何度も繰り返していた。級友の何人かは塾の夏期講習なんかに行ったりもしているようだ。 正直なところ、と那緒は思う。 正直なところ、ピンと来ていない。大学受験も卒業も進学も、この高校生活の先に待ち受ける何もかも、どうしてもイメージできないし現実だという感じがない。 三年前はどうだったっけ、と思い返す。高校受験を控えた中学三年生。 部活を引退してからしばらくぼんやり過ごしてしまい、秋も深まってから焦って受験勉強を始めた。そういう意味では今もあまり成長していないといえる。 そもそも志望校はどうやって決めたんだっけ。将来の夢もなく、レベル的にも選択肢が限られている中で、この高校を選び死にものぐるいになって勉強をしたのは、そうだ。宗介と友春に合わせたのだ。 那緒がギリギリで合格できたこの高校は、彼らにとってはさほど必死にならなくても(宗介に関しては素行の悪さを差し引いても)入れるレベルだった。本人たちは否定するだろうが、実際は二人が自分に合わせてくれたのだろうな、と那緒は思っている。 しかし今度は、卒業したらたぶん、別々の道に進むのだろうということがわかっていた。 幼稚園からずっと同じところに通い続け、なんと十五年にもなる。二人と進路が離れるというのが、那緒にはどうにも想像できないのだった。それに。 ーー結婚って、それこそ現実味ないよなあ。 数日前の、円佳と四人で遠出したあの日のことを思い出す。 白いTシャツ姿の宗介の輪郭が、青い光を受けて水槽に溶けていた光景。那緒を置いていつの間にかずっと大人になってしまったかのような横顔。けれど那緒が好きになった、真っ直ぐな目や声とか、当たり前に振るわれる小さな優しさとか、そういうものは変わっていなくて。 「宗介が他の奴にとられちまうのなんか、どうせ想像もしたことなかったんだろ」 友春の言葉が、すぐそこにいるかのようにリアルに再生される。 何も言い返せなかったのはまったくもって友春の言う通りだったからで。 宗介を想う自分の気持ちと同じように、自分たちを取り巻く環境も日常も変わらない。だから、この恋は実らなくてもいい。ずっと変わらずそばにいられたらそれでいい。 漠然とそんなふうに思っていた自分が、あまりにも愚図で間抜けで恥ずかしくて、那緒は結局、あれから一度も宗介に連絡をしていないのだった。 ガタン、と椅子を引く音がしてはっとする。 隣の席に座っていた女子生徒が、一番乗りでテストを全て解き終えたらしかった。荷物を持って教室を出ていく背中には晴れ晴れとしたものがある。那緒も慌てて椅子の上で座り直し、漂っていた意識を並ぶ数式へと向けた。

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