時刻は夜八時を回り、那緒は友春からのコールで弾かれたように立ち上がった。 二秒で切れた着信は「着いたぞ出てこい」の意だ。スマートフォンだけ握ったまま、急ぎ足で自室を出、玄関へと向かう。 昼間の暑気の名残がまだ微かに残るアスファルト。門のすぐそこに友春が立っていた。那緒が駆け寄ると、右手を顔の横に掲げて揺らす。 「いやあ、録れた録れた。『クズ男』の参考資料としてネットで配布したいくらい、いろいろ録れたわ」 その手の中にはＩＣレコーダー。街灯の黄色っぽい光を受け、黒いボディがぺかぺかと光っている。 「聴く？　三時間フルで回したけど」 「頼むからやめて。聴きたくない」 幼稚園の頃から知っている友人がホテルで録音した音声など、聴きたいと思う趣味は那緒にはなかった。三時間という具体的な数字が妙に生々しい。 幸いにして友春は「適当に編集しとくわ」と、すぐにレコーダーをポケットに仕舞った。 「写真は」 そう言われて今度は那緒がスマートフォンを差し出す。 途中見失いそうになりながらも、なんとか追いかけて撮影した、ホテルに入っていく二人の姿が写っていた。 「お、ちゃんと顔も撮れてんじゃん。ポンコツにしては上出来」 ズームにしたため多少画質が荒いが、斜め前方からの角度で撮影された男の顔は、十分本人と判別できるレベルだ。 その腕はしっかりと友春の腰に回されている上、友春自身の顔は影になっており、マスクをしているためもあってほとんどわからない。何十枚も撮ったうちの奇跡的な一枚だった。 友春が満足げに頷く。 「よし。言質もとれたし、未成年淫行の立件は完璧」 この写真と音声で、鍛治ヶ崎秀二に脅しをかけるつもりなのだ。 相手が未成年とはいえ、合意の上でのそういう行為がどの程度の罪になるのか、那緒にはよくわかっていないし、そもそも訴える気など友春にも毛頭ない。 ただこの情報を使って、社会的に面目を潰れさせることを秀二本人に匂わせる。宗介との縁談を断り、そして鬼塚家との親族関係を鍛治ヶ崎に諦めさせる、そのくらいの交渉材料にはなるだろう……という目論見だ。 「……うまくいくかな」 「さあな」 不安げな那緒の言葉に、友春は投げ遣りに返事をすると、「ちょっと歩こうぜ」と顎をしゃくった。 夏の夜は独特の気配がする。網戸にした民家の居間から漏れ聞こえる声やテレビの音。 風は水の匂いに似た清しさをたっぷりと含み、心地よい温さで半袖の腕を撫でる。その風を吸いたかったのだろうか、友春が珍しくマスクを外した。 いつも気怠げに歩く友春が、ことのほかゆっくり、少し大股で、当て所なく住宅街を進んでいく。那緒も突っかけのサンダルで速度を合わせた。 空はよく晴れている。どこまでも湛えられた透き通った黒に、針先で突いた穴のような星が無数に散っていた。 「消えちまいたいときってあるよな」 いきなり友春が言った。「最初からいなかったみたいに、キレイに、スーッと。あるだろ？」 その口調は重々しいものではなく、むしろ日常の些末な話をする軽薄さに近くて、那緒は返す言葉をすぐには思いつかなかった。友春は淡々と続ける。 「だからって別に、死にたいってわけじゃねーんだけど」 「俺が生まれる前まで時間、巻き戻ってくんねーかな、とか」 「朝起きたら虫にでもなってねーかなとか」 「そもそも目ぇ覚めなきゃいいのに、とか」 那緒が友春を見ると、友春も那緒を見た。ほとんど同じ高さの目線。友春の表情に特別、陰はない。ように見える。 「……あんの？」 「ねえの？」 「や、……俺はある、けど。トモにもそんなことあんの、って、思って」 「誰でもあんだろ、たぶん」 友春はのんびり歩く足を止めないまま、澄んだ空を仰ぐように首を上向ける。口調は世間話じみているが、友春なりに夏の夜空に思うところがあるのかもしれない、と那緒は思った。 「少年よ大志を抱け、ってあんじゃん」 「なんとか博士？」 「クラークな。あの言葉、俺、嫌いなんだよ。大志がなきゃ生きてちゃいけねーのかよ、って思わねえ？」 友春がサンダルの爪先でボールを蹴るような動作をする。ゴムの靴底がアスファルトに擦れる音と、砂利のような小石が前方に飛んだ。 「好きで生まれてきたわけじゃねーんだからさ、生き方くらい勝手にさせろっての。ほんとは消えたいなーって思ってんのに、生きてるだけ上等だよ、俺ら」 どこか近くの家から笑い声が聞こえてくる。夕食後に家族揃ってバラエティ番組でも観ているのだろうか。街灯の下を通ると、夜だというのに影ができる。 ポケットに両手を突っ込んだ友春の影が、ゆったりと踊るように片足を振り上げた。 「理不尽ばっかの中でどうにか生きてんだからさ、たまにムカつく大人にちょっと唾吐くくらい、許せっての。な」 友春は言葉の割に穏やかな顔だ。那緒も頷いて言う。 「少年よ唾を吐け、だ」 「はは、中二っぽいな、俺ら」 どこまでも夜が伸びている。二人はサンダルの足の左右で濃い影を順に踏みながら、しばらくその中を漂った。