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#18-6

それからしばらくのあいだ、車内にはラジオの音だけが淡々と流れていた。 女性パーソナリティの落ち着いた低めの声。ワンコーラスでフェードアウトするポップソングはどれも明るい曲調のもので、那緒の耳から滑り落ちるばかりだった。 今すぐ飛んでいきたいほど逸る那緒の気持ちとは無関係に、タクシーは法定速度を遵守して進んでいく。 酷くもどかしいスピードに感じられた。 それでも目的地までの距離は、時間の経過と共に確実に縮まっていた。窓の外には見慣れない街並みが広がっていく。 何度も何度も見てしまう腕時計が十時四十分を指した頃、友春のスマートフォンが振動した。それまでずっと黙っていた友春が、通知を見て舌打ちしたのが聞こえ、那緒の心に不安が過ぎる。 「光希、渋滞ハマったって」 「嘘だろっ」 「もうかなり近くまで行ってるらしいけど。しかも事故っぽいって」 「マジかよ……え、じゃあ、俺らもヤバイってこと?」 友春は答えず、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回した。 悪い予感は的中する。 それから五分と経たないうちに、那緒たちの乗るタクシーも進みが遅くなり始め、やがて完全に停止してしまった。 「あちゃー」ドライバーが声をあげる。「ここで事故渋滞となると、しばらくかかるよ、こりゃ。この先は道細くなる一方だから」 絶望的な宣告に、那緒はついに自身の膝を拳で殴りつけた。鈍い痛みはほとんど脳まで届かない。 冷房のきいた鉄の箱の中、同じく行く手を塞がれた乗用車の列に挟まれ。身動きがとれなくなった自分の、あまりの無力に、那緒の腹の奥では不甲斐なさが募った。 (もや)のようだったそれは、次第に濃度を増しながら、じりじりと熱くなり。胸のあたりまでせりあがりながら大きくなって、ついには衝動の炎となった。 めら、と燃えあがる。それに炙られたように全身の血が強く脈を打つ。 その炎に急かされるまま那緒は口を開いた。 「トモ、俺、走って行く」 「……は?」 「トモはこのまま乗ってて。俺だけ走るから」 言いながらドアハンドルに手をかけると、もう片方の腕を慌てた様子で掴まれる。 「いやいや……アホだろ。え、運転手さん、あと何キロ?」 「七、八キロくらいかねえ……」 「大丈夫、余裕。陸上部だから」 「お前短距離だろ。つーか、どっちにしろもう十一時には間に合わねえし。意味ねえからやめとけって」 友春の言い分がもっともなものであることは那緒にもわかっていた。予定していた計画はもう恐らく通用しない。 しかし、那緒を動かそうとしているのは、理屈とは無関係な衝動だった。それを止めるのは理屈では不可能だ。 ポーカーフェイスはどこへやら、珍しく焦った顔をした友春を、那緒は真っ直ぐに見て告げる。 「じっとしてんの無理。頼む、行かせて」 「……いや、死ぬぞ、この気温で」 「死なない。大丈夫」 根拠のない宣言をして、ドアハンドルを勢いよく引いた。その瞬間、熱せられた外気が流れ込む。 那緒は友春の手を振り払って車外へ出た。ガードレールを乗り越えて歩道へ入ってから、屈んで靴紐をしっかりと結び直す。 タクシーの窓を開けて友春が怒鳴った。 「バカだろ、お前、ほんっとバカ」 構わずに軽く屈伸をして、両腕をぐるりと回してから、鉄板のような道の上を走り出した。その背中を友春の声が追う。 「早まって変なことすんじゃねえぞ、おいポンコツ、この野郎!」

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