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#19 那緒走る
サンダルを履くつもりだったのだ。家を出ようとするそのときまで。
スニーカーに変更したのは、足の甲を虫に刺されていることに気づいたからだった。
虫刺されというものは、自覚すると急に痒くなってくるのはどういう原理なんだろうか。ちょうどサンダルのストラップが当たる位置で、一度足を入れてはみたものの、歩くたび擦れて痒みが増しそうでだめだった。
仕方なく一度部屋へ戻り、くるぶし丈の靴下を履いて、いつものナイキのエアフォースに替えたのだ。
ーーランニングシューズならもっとよかったけど。
そう思いながら那緒は、焼けたアスファルトを駆けていた。
車道には延々と列ができている。その進みは亀のようなのろさだ。じゃあ俺は兎か。兎と亀って、そもそもどういう経緯で競走することになったんだっけ?
気温は高いが、湿度がそれほどでもないのは救いだった。高温多湿は熱中症の危険度が跳ね上がる。
熱中症って脳味噌が茹で卵みたいになるんだって、何かで見て信じてたけど、ほんとは違うって教えてくれたの、宗ちゃんだったな。説明されてもよくわかんなかったけど。
並ぶ車たちのボディに太陽光が反射して、視界の右側ばかりがぎらぎらと輝いて鬱陶しかった。水族館で見た魚群みたいだ。
額から汗が滴り落ちる。立っているだけで汗ばむ陽気だ。
ウォームアップもなしに無茶な走り出しをして、これが部活の引退前だったら酷く怒られただろう。しかし今の那緒には関係なかった。今日を限りに二度と走れなくなっても構わないような気さえした。
那緒の中の冷静な部分が考える。自販機を見つけたら、ドリンクを買ったほうがいいな。友春の言った通り、死んでもおかしくない状況だ。暢気に倒れているわけにはいかないのだ。
冷静でない部分には、宗介がいた。
宗介しかいなかった。
前方に陽炎の立ちのぼるのを見ながら、そこに宗介の姿を浮かべていた。
もう何年も前の夏、あの日も暑かった。昨日のことのように思い出せた。
小学生の頃。お盆に入る前の宗介は毎年むくれていた。恒例の親戚回りに連れていかれるのが嫌だと言って。
そしてついにあの夏、三人で計画を立てた。
朝六時にそれぞれ家を抜け出してきて、隣の学区にある公園まで行って、日が暮れるまで帰らなかった。
あの日は確か、その夏一番の猛暑日となったのだ。
からりとした風が吹いて、陽射しは炙るようで、ラムネ色の入道雲は仁王立ちした巨人みたいで。
そんな夏の結晶のような空よりも、宗介のほうが、那緒には眩しく見えた。
その日の宗介は、籠から出された鳥のように、のびのびとして笑っていた。
白いTシャツ、黒い野球帽のつばの影、自分と同じ大きさの手のひら。
すべてが眩しかった。
大好きだった。
大好きだ。
いつのまにか宗介より少し高くなった背丈で、那緒は真っ直ぐ続く国道を切り裂いていく。そのしなやかな手足の推進力をもって、進まない車窓の景色を置き去りにして、ぐんぐん飛んでいく。リズムよく吸って吐く息が身体じゅうに巡っている。
自分ひとりが少しくらい早く到着できたところで、意味はない。そんなことはわかっている、何もできないことなんて、自分が一番よくわかっている。
それでも飛び出してきてしまったのは、あのままじっとしていたら、泣いてしまいそうだったからだ。
二度と声も手も届かないところへ、宗介が連れ去られてしまうのを想像して、心がよじれて潰れてしまいそうだったから。
一秒でも早く救い出したい気持ちが那緒の身体を動かす。スポーツ用ではないシャツや下着が汗で肌に張りつく。
那緒は時計を見ていなかったが、自販機を見つけスポーツドリンクを買ったのは走り出して十五分後のことだった。マラソンランナーのように走りながら口に含む。冷たさと特有の甘みが喉を潤して、那緒のスピードを上げた。
それからさらに十分ほど走り続けて、那緒はついに渋滞の原因たる事故現場に至った。
なかなかに大きな事故だったようで、大型トラックが道路を塞ぐ形で横転している。酷い渋滞もこれならば仕方ないと納得させる有様だった。
死人が出ていないことを祈りながら、那緒はその現場を置き去りにした。
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