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#19-3
目の前に並べられる美しい彩りの料理を、宗介はただひたすらに黙って咀嚼し飲み込んでいた。
刺身は冷たく、煮物は柔らかく、焼き魚はしっとりしている。それしかわからない。グラスに注がれた黄色っぽい透き通った飲み物は、茶なのかリンゴジュースなのかわからないまま飲んでいる。
「宗介くん、これ美味しいよ。食べた?」
声をかけられ顔を上げた。秀二が小鉢のひとつを手に、人好きのしそうな笑顔でこちらを見ていた。
宗介は曖昧に頷くと同じものに箸をつける。味覚のついでに視覚も聴覚も麻痺してしまえばいいのに、と思う。
鍛治ヶ崎がまた馬鹿笑いをしている。
前後の会話なんて全く聞いていなかった宗介は、鍛治ヶ崎夫妻が揃ってこちらを見ているのに気づいて初めて、どうやら自分の話をしているらしいとわかった。
隣に座った母が、代わりに何か答えながら、宗介の背中をそっとさする。心配されている、と察して、情けない気分になった。
しっかりしなければと思うものの、食事は味がしないし、足は痺れてきたし、意識がすぐどこかに逃げていきそうになる。
結果、黙って俯いたまま茶なのかリンゴジュースなのかわからないものを飲むことしか、宗介にはできないのだった。
「宗介くん、前にお宅へお邪魔したときは、もっとヤンチャな印象だったがなあ。今日はずいぶんしおらしいじゃないか?」
そう言って鍛治ヶ崎がまた下品に笑う。父が「緊張して猫を被ってるんです」と答えた。
鍛治ヶ崎は以前家で会っていると聞いてはいたが、その容姿なんて宗介は全く覚えていなかった。しかし実際に会ってみれば、記憶の片隅には確かに存在していた。
頭髪が薄く眉の濃い、自信と傲慢を塗りつけたように鼻をてかてか光らせた男。
鍛治ヶ崎夫人は女性で、淡藤色の着物を着ている。声が甲高くて、化粧が厚い。
秀二は、夫妻のどちらにもあまり似ていなかった。精悍な顔立ちに引き締まった体つき。両親たちの会話にもあまり参加せず(黙りこくっている宗介ほどではないにしろ)、時々宗介に短く話しかけてくる。
口数は多くないくせに、視線がやけにうるさいな、と宗介は思っていた。
ずっと見られている。たまに目が合うと微笑まれる。その笑顔は悪意を感じさせるものではないのだが、何を考えているのかわからないのが、宗介には不気味だった。
そんな秀二が、また声をかけてきた。
「宗介くん、部活とかはやってないの?」
首を横に振ると、「そうなんだ。でも運動神経よさそうだよね」と話が続けられる。なんと答えていいかわからず宗介はやはり無言だった。確かに運動神経はかなり良いほうだが、得意なのは顔面への跳び蹴りです、とは言えない。
「好きなスポーツとかある? やるのでも、観るのでも」
秀二はなおも言葉を重ねてくる。ここまで首を縦か横に振るのみで会話を凌いできた宗介を、そろそろ喋らせたいのだろう。
宗介は数秒考えたあとで「陸上」と言った。秀二の表情が少し満足げになる。「見るだけなら」と付け足した宗介に、秀二は「へえ」と大袈裟に相槌を打った。
「駅伝とか、マラソンとか?」
「……短距離。二〇〇メートル」
宗介は短く答える。テレビでスポーツを目にする程度のことはあっても、自ら進んで観に行ったことがあるのは、宗介の人生においてその競技だけだった。
競技場のトラックに立つ幼馴染は、初めて見る真剣な横顔をしていて、知らない人のように思えた。
ピストルの破裂音。クラウチングスタートで駆け抜けるさまは、まるで地を這って吹く突風だった。
中学の頃だ。その大会で那緒は優勝した。那緒のことを凄いと思ったのは、後にも先にもあれ一度きりだ。
秀二が目を細めて笑う。
「すっごい具体的だね。もしかして、誰か近しい人がやってたのかな」
瞼の裏に浮かんでいたものを見通されたようなその言葉に、宗介の感じていた居心地の悪さは突如、ピークに達した。
急に立ち上がった宗介を、母が慌てた声で呼び止める。「トイレ」とだけ言い置き、追ってくる声には構わず外に出た。
じりじりとした暑さが一気に肌を舐めるが、あの空間からひとときだけでも抜け出せた解放感のほうが強くて、宗介は深く深く息を吐き出した。
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