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#19-4

靴を履いて渡り廊下に降りる。トイレは母屋にあると説明されていた。単なる口実ではあったが、トイレなら確実に一人になれる。 少し痺れた足のせいで歩みがぎこちなかった。ふたつある個室の片方に入り、閉めたままの便座の蓋の上に腰を下ろす。 気持ち程度に整えてきた髪の毛も、第二ボタンまで閉めたシャツも、全部ぐしゃぐしゃにしてしまいたい。数時間の辛抱だとわかっていても、窮屈で仕方なかった。 ポケットに入れていたスマートフォンを、用事もないのに取り出す。 画面のロックを外すと、珍しいことに着信履歴が残っていた。サイレントモードにしていたから気づかなかったようだ。 詳細を確認して驚く。 着信は五回。全て友春だ。 この二十分ほどのあいだに繰り返しかけてきている。最後の着信は三分前、ということを確認した瞬間。 無音のまま画面が切り替わった。 着信、友春。 その名前を見つめて、宗介は迷った。出るべきか、出ざるべきか。 迷った挙げ句、通話のアイコンをタップした。 友春からの電話にだけは、出ないといけない気がした。 『……宗介?』 通話が繋がると、数秒の沈黙を挟んで、友春が確かめるように自分を呼んだ。その声に、懐かしさに似た奇妙な感慨を抱いて、宗介はわざとぶっきらぼうに返事をする。 「なんだよ。悪ィけど今日は忙しいんだ、パピコ食ってる暇はねえぞ」 『あー……うん……知ってる』 どこか上の空のような口調。友春らしくない。さらにらしくないことには、 『出てくれると思わなかった。ありがと』 そんなことを言った。宗介は返す言葉を見失う。謎の余裕に満ちあふれたいつもの友春じゃない。 面食らいながらも「何の用だよ」と返すが、『んー……』と唸るばかりで、なんとも歯切れが悪かった。 「用がねえなら切るぞ。マジで暇じゃねえんだよ、今」 『あー、や、待って待って。えーと、一個だけ聞いて』 とってつけたような言葉にますます違和感が募るが、宗介はひとまず聞くことにした。 用もないのに電話してくるような奴じゃないことはわかっている。よほど言いにくい用件があるのか、そうでなければ、電話を繋げること自体が目的だったのだ。そのくらいは推察できた。 それに宗介自身、本心では電話を切りたいわけではない。あの離れの部屋に戻りたくない気持ちのほうが遥かに強かった。 あのさあ、と友春は話し出した。 『後先考えないで突っ走れるのってさ、ある意味、才能だよね。俺とかお前にはない才能だよ。別に羨ましくはねえけど、すげえな、って思ってさ』 「……何の話だよ」 『普通さ、意味なさそうな選択肢は捨てるじゃん。合理的なほう選ぶじゃん。でもそうじゃない人種がいるんだよな。正直バカだなって思うよ。でもさ、そういうバカにしかできないことも、生きてりゃたぶん、あるんじゃねえかな』 つらつらと語る友春に、宗介は一人、首を捻る。何を言いたいのかいまいちわからない。そもそもこんな抽象的な話をすること自体が珍しい。 「話が見えねえんだけど」 『だよね。俺にもよくわかんない』 「なんだそりゃ」 『わかんないけど、さっき思ってさ。だからお前に電話したんだ』 「はあ?」 『願掛けとか、したことないけどさ。もし繋がったら……お前が電話出てくれたら、なんか変わるかも、って思って』 平淡な調子で投げ込まれる言葉の意味を、宗介は暫し黙って考える。が、やはり掴めない。キャッチボールが成立していない。 暑さでどっか壊れたか。お前暑いの嫌いだもんな。そう言おうかと思ったら、それより先に友春が『あ』と言った。 『もしかして、もうすぐ着きます?』 問いかける口調のそれは、宗介ではなく電話の向こう側の誰かに向けられたものだった。 「どっか出かけてんのか」 『んー、ないしょ』 「あっそ。だったらもういいか? 切るぞ」 『うん。……あ、なあ、宗介』 「なんだよ、しつけえな」 ふ、と含み笑いのような友春の声が、宗介の耳殻で揺れる。 『たまにはバカに全賭け、ってのもありかもな』 スマートフォンをポケットに戻し、宗介は立ち上がった。 個室を出、時間をかけて手を洗い、鏡に映った自分と睨み合う。この上なく気が重いが、ずっとここにいるわけにもいかない。時間が早く過ぎてくれることを祈って乗り切るしかない、と腹を括り直した。 到着して最初に通ったときはそこまで気が回らなかったが、細やかに整えられた中庭の美しさに、宗介は歩きながら気づく。 濃淡さまざまの緑が瑞々しく伸び、小川を模した細い水の流れが、渡り廊下のそばを通っている。 外は猛暑のはずなのに、視覚的な効果も手伝ってか、その空間は幾分か涼やかに感じられた。 庭を眺めながらゆっくりと渡り廊下を歩いていた宗介は、ふと足を止める。 離れの前に人影があった。仲居ではない。着物姿でも女性でもない。 Tシャツにジーンズの男で、外側から壁にへばりつくようにして立っている。 どうやら入り口の引き戸の隙間から中を覗こうとしているらしく、不審者としか思えない動きだ。後ろ姿しか見えないが、その背格好に宗介は覚えがあり、しかし同時に「まさか」とも思う。 「……ナオ?」 宗介は眉を顰めてその名前を発音した。 呼びかけるというよりは独り言に近いニュアンスだったが、不審人物の耳には届いたらしい。文字通り飛び上がってから、声もなく恐々として振り向いたのは、思った通り。ポンコツの幼馴染に他ならなかった。 見開いた目にはっきりと焦りを浮かべた那緒を見て、宗介の思考はしばしハテナに埋め尽くされる。 なぜお前がここに、何をしにきた、何をしてる? そのどれかを宗介が口にしようとする前に、事態はもうひとつ動いた。 離れの引き戸が開き、中から秀二が姿を見せたのだ。 那緒はぎょっとして飛び退くが、秀二も思いがけずすぐそばに立っていた人影に驚いたに違いない。那緒を見、渡り廊下に立つ宗介にも気づいて、怪訝な顔で言った。 「宗介くんのお友達?」

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