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#19-5

背後から名前を呼ばれたときは心臓が止まるかと思ったが、数センチの距離で勢いよく引き戸が開いたのにも、かなり寿命を縮められた気がする。 ほんの少し覗いてみようと思っただけだった。そこに宗介がいるとわかりさえすれば、外から様子を窺うこともしやすくなる。 一人で突入しようだとか、そんな先走ったことは考えていなかった。勝算は薄いし、友春のような機転が自分にはないこともわかっているから。 その男ーー鍛治ヶ崎秀二と対面したとき、那緒の頭にまず浮かんだのは、まさに友春の顔だった。「早速なにやらかしてんだこのポンコツ、計画台無しにしやがって、グズ野郎」と目尻を吊り上げる。 秀二はくっきりした二重の目をぱちくりさせて那緒を見ていた。 汗だくで高級料亭に忍び込んだその姿をどう思ったのだろう。不審者というより珍獣でも見つけたような表情だ。 しげしげと那緒を観察したあとで、数メートル離れたところに立っている宗介にその視線は移った。「宗介くんのお友達?」と、那緒ではなく宗介に向けて尋ねるのを耳にした瞬間、那緒は強い苛立ちを覚えた。 その男が宗介の名前を口にする、たったそれだけのことに、言いようもなく(はらわた)が煮えた。 考えるより先に身体が動き、気がつくと那緒は宗介のもとへ駆け寄っていた。 汗まみれのシャツも気にしていられない。立ち尽くしている宗介の手を握り、思わず口走る。 「宗ちゃん……っ、逃げよう!」 宗介は唖然として、那緒の形振り構わぬ表情をその黒い瞳に映していた。未だ状況が把握できずにいる。那緒にだってよくわかっていないのだから当然といえた。 「お前……、なんでここにいんだ」 「えっ、えーと、それは……あー……」 口ごもる那緒の背後で、離れがやや騒々しくなる。鍛治ヶ崎夫妻や宗介の両親が異変に気づいたのだ。 どすどすと大きな足音を立てて戸口までやってきて「何だ君は」と声をあげたのは鍛治ヶ崎だった。 その後ろから宗介と似た顔がひょっこりと現れ「ナオくん?」と呟く。 釣られるようにしてあっという間に、中にいた全員が姿を見せた。数人の従業員までもが母屋から出てきて、何事かとこちらを窺っている。 宗介に見つかってからものの一分も経っていない。あっという間に最悪の戦況に追い込まれ、那緒はほとんどパニック状態に陥っていた。 この顔合わせの席を単純にぶち壊すのでは意味がないから、秀二を脅すという遠回りな作戦を立てたのに。 どうしよう。 どうしたらいい。 「おい、あれをつまみ出してくれ」と、鍛治ヶ崎が母屋側の従業員たちに向けて声を荒げた。 自分たちを注視する大人たちの目の中で、那緒は必死で頭を回転させる。 頼れるものはひとつもない。 ただ、戸惑っているはずの宗介に、手を振りほどかれることもなかった。 その事実だけが那緒を少し落ち着かせ、そして、奮い立たせた。なけなしの度胸を据えさせた。 那緒は、秀二や両親たちから宗介を庇うように向き直る。 その抵抗しない片手を強く掴んだまま、敵対心を剥き出しにした視線を秀二に投げつけた。 「あっ……あんたっ、いろんな人と遊んでんだろ、結婚しても不倫する気満々なんだろっ。そんな奴に宗ちゃんをやってたまるか!」 途中噛みそうになりながらも、精一杯に勇んで言い切った。 秀二の眉がぴくりと跳ねる。 その後ろで鍛治ヶ崎が何事か喚くが、那緒は秀二だけを睨みつけ、どんな反応が返ってくるのかと待っていた。 秀二は僅かに顎を上げ、見下すような角度で那緒を見据えている。冷ややかな無表情。 「人聞きが悪いな……不倫なんかするわけないでしょ。なんなの、君?」 出来の悪い子供を諭すような、呆れ混じりの口調で言った。言葉尻は柔らかいが、高圧的な態度が滲み出ている。 負けじと那緒は奥歯をぐっと噛むと、ポケットから取り出したスマートフォンを相手に向かって突きつけた。 「こ、こっちにはな、録音したデータがあるんだよ。『クズ男』の参考資料としてネットで配布したいくらい、最ッ低なことばっか言ってるあんたの音声がっ」 「はあ……?」 保存してあった編集済みの音声データを再生すると、ホテルで録音された友春との会話が流れ出す。 冒頭の数秒だけを流して停止し、那緒は相手の表情を窺った。秀二は不快そうに眉を顰めながらも、動じた様子はない。 「何だか知らないけどさ、それが本当に俺の声だって君、証明できるわけ?」 「な、証明って……間違いなくあんたの声だろっ。覚えてねえとか言わせねえぞっ」 「……話になんないよ。名誉毀損だ。子供だからって許されると思うなよ」 秀二は溜め息を吐き、芝居がかった仕草で肩を竦める。しらを切り通すつもりらしい。 「それにさ」と続けながら、那緒と睨みあっていた視線を僅かに逸らす。 「俺は、今日初めて宗介くんと会ったんだ。この意味わかるだろ?」 少し目を細めた、意味深な眼差しが宗介へと向けられた。宗介が身を強張らせたのが那緒の手に伝わる。 那緒が見ると、宗介は俯き気味に視線を泳がせていた。血の気の薄い唇は真一文字に引き結ばれている。 秀二は宗介を見つめたまま微笑んだ。一見優しげに見えるその表情は、計算高い蛇みたいだ、と那緒に思わせた。 「確かに今まで関係持ってた相手はいるけど……、みんな切るよ。これからは一生、宗介くんだけを大事にする。それが結婚ってもんだろ?」

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