107 / 111

#19-7

ずっと助けたかったし、守りたかった。 それができないのをどこかで宗介のせいにしていた。 同情なんてされたくない、救いなんかいらないと、宗介がそう言うから。彼より弱い自分は、だから何もさせてもらえないのだと、言い訳にしていた。 本当は伸ばした手を拒まれるのが怖かっただけだ。 目を逸らしてきたその事実が、那緒に選択をさせた。動かし、走らせ、叫ばせた。 次は宗介が選ぶ番だと思った。 温もりを失った那緒の手は、代わりに宙を掴んでいる。 世界から音が消えたようだった。蝉の声や風の音も、蝕むような暑さも全部消えて、ただ、宗介の気配だけがそこにいて。 長い長い数秒ののちに、触れた。 さっきまでと同じ体温が、違う意味をもって。 弾かれたように目を開けた那緒は、その感触が錯覚ではないことを恐る恐る確かめる。 汗ばんだ那緒の手は、宗介のそれに確かに握られていた。 顔を上げると視線が噛み合う。 声にならなくてもわかる。その瞳は言っていた。 助けてくれ、と。 「……そ」 宗ちゃん、と呼ぼうとした瞬間。 何かが潰れるような、どしゃっ、という音がした。 聞こえてきたほうを見ると、那緒が侵入してきたのと同じ門のところに、人影がうずくまっていた。いや、倒れていた。それも二人重なって。 宗介が宇宙人にでも会ったような声で呟く。 「……み、光希……?」 確かに、すぐに起きあがった上のほうの人物は光希だった。ならば、その下でべしゃりと潰されているほうは。 「うわああ! 友春くんごめんっ」 光希が飛び退いて助け起こすと、額に青筋を立てた友春が、逆に光希の襟首を掴んで揺すった。 「バカお前、見つかっちまっただろうが、バカッ」 「ごめんなさいぃ……!」 光希の半べそ声。唐突な新しい侵入者たちが、場の注意を全てかっさらっていた。 那緒より遅れて到着した二人は、恐らく門戸から成り行きを覗いていて転倒したのだろう……と、那緒にだけは経緯が推測できたが、那緒以外には全くもってわけのわからないことの連続だった。 注目されている状況に気づいた友春が、舌打ちして「逃げるぞ」と光希を引きずる。ばたばたと門から逃げ出していく二人の背中に、那緒もはっとする。 再びぎゅっと握り直した宗介の手を引き、一目散に駆けだした。 「うわ……っ」 宗介は声をあげるが、さすがの運動神経でついてきた。自分が逆の立場だったらすっ転んでいたに違いない、となぜかそんなことを那緒は真面目に思いながら、万緑の庭をひといきに突っ切っていく。 鍛治ヶ崎のひび割れたような声が背を追ってきたが、そんなもので止まるわけがなかった。 瞬く間に門を抜け、直感で那緒は、来たときとは反対の方向へと走り出した。 友春たちの姿は見当たらなかった。 路地に隠れでもしたのだろうか、探してなどいられない。それどころじゃない。 やっと掴んだのだから。 走りながら振り向いて見たら、ちゃんといた。 少し息を弾ませて、宗介がすぐそこにいた。 どのくらい走ったのか那緒にはもうよくわからなかったが、住宅街が開けた先には川があった。そこでやっと足を止め、土手の上で二人、身体をくの字に折る。 しばらくのあいだ手を離すのを忘れていた。先に我に返ったのは宗介で、乱暴に振りほどかれてしまい、那緒は少々悲しかった。 肩で大きく息をしながら、宗介が鋭い視線を那緒に向ける。 「てめ……、ちゃんと、説明しろよっ」 言葉は切れ切れだが、いつもの宗介の声だった。那緒は片手で脇腹を押さえながら、やはり切れ切れに答える。 「す……するよ、するけど、ちょっと、待って……」 「全部だぞっ、俺が納得いく説明、ちゃんと全部できんだろうなあっ」 「できる……、と思う、たぶん……」 「たぶんじゃねえ、しろ!」 そんなふうに宗介に怒鳴られるのもずいぶん久しぶりな気がして、笑っている場合ではないと思いながらも、那緒は頬が緩むのを抑えられなかった。「なにヘラヘラしてやがんだっ」と背中をどつかれるのすら嬉しい。 まだ息は荒いし、恥ずかしいほど汗まみれだが、那緒はどうにか背を伸ばして、宗介と向かい合う。 「ちゃんと全部、説明するから」 那緒が言うと、宗介は拗ねたように唇を尖らせながらも、ひとつ頷いた。やや幼い仕草に、那緒はまた少し笑う。 「疲れたよね。どっか座れるとこ」 探そう……と言いかけたところで、那緒の視界はがくんと揺れた。 正確には、疲弊した左膝がカクンと折れて、重心が思いきり左に傾いた。そしてそこは土手の端だった。 上体が投げ出されるような感覚に、あれっ、と思ったときにはもう遅く。 一瞬だけ目の前いっぱいに綺麗な青空が広がり、それから那緒は、転げ落ちた。 石ころのように土手を。 「おいっ、ナオ!」 宗介の声が遥か彼方から降ってくる。 土手の下、遊歩道のように舗装された川べりの地面の上に、気づけば那緒は横たわっていた。流れる水音がさっきまでよりも近づいて聞こえる。 土手を駆け降りてきた宗介が、焦った顔で那緒の両肩を掴み、揺すった。 「おいナオ、生きてるか!? 死んだのかっ」 「……いだい……」 こういうときはあんまり揺らしちゃだめだよ宗ちゃん、と言う余裕はなく、とりあえず痛い。くまなく斜面に打ちつけた全身が痛い。 一人ならしばらく動けなかっただろうが、宗介に半ば無理矢理に引っ張り起こされた。泥だらけになった身体を二人で検分する。 あちこち痛いことは痛いが、深刻な怪我はないようだ。 そもそも那緒の人生、土手を転げ落ちたのはこれが初めてではない。 自分のドジにはつくづくうんざりだが、まあ、意外と死んではいないのだからいいかーーと、那緒が内心で開き直り始めた、その目の前で。 宗介が唇をおかしな形に歪ませる。 「……ふ」 そこから漏れた息が二人のあいだの空気を揺らした。 薄い唇が弧を描いて、小さめの白い歯が覗く。走ったせいで上気した頬は、目尻のあたりまで薄っすら赤くなっていた。 無愛想にいつも何かを睨んでいる目が、那緒を見つめて細められる。 ーーあ。 那緒の左胸で心臓が跳ねた。 さわれそうなほど青い空が、宗介の輪郭をくっきりとふちどっていて。 「ほんとにテメーは、バカだな……っ」 そう言って笑った。 宗介が、声をあげて笑った。

ともだちにシェアしよう!