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#20 夏の果て
久しぶりに布団を敷いた。
宗介や円佳が泊まるときはいつも那緒のベッドを譲っていた。数ヶ月前まではほぼ毎週のことだったから、布団の硬い寝心地にも慣れたものだったけれど、今夜はどうだろう。むしろ懐かしさを感じるかもしれない。
気を紛らわせるように那緒はそんなことを考えていた。
正直なところ、複雑な心境だ。
宗介が家に来てくれたのは嬉しいが、同じ部屋で寝るというシチュエーションに、今日の自分が耐えきれるかどうか。
いっそのこと別の部屋に逃げてしまいたいが、それはそれで露骨すぎていかがなものか。
ひとり悶々としながら、必要以上に丁寧にシーツの皺を延ばし続けていた那緒は、ドアの開く音に顔を上げた。
風呂を済ませて寝間着に着替えた宗介が部屋に入ってくる。
髪がまだしんなりしていて、幾分幼い印象だ。それだって見慣れているはずなのに、那緒はつい目を逸らしてしまう。
部屋の主のそんな思いなど露知らず、宗介はベッドに腰掛けると、きょろきょろと室内を見回した。
「……なんか、変わったか? 部屋」
「え、そう? 特に何も変えてないけど……」
そうか、と呟いて、宗介はどこかそわそわしていた。
久々だから宗介も落ち着かないのだろう。天井を見上げてみたり、枕を手のひらでぱふぱふと叩いてみたり。そんな様子を眺めながら、那緒はぐっと唇を引き結ぶ。
耐えきれるかどうか……というより、耐えるしかないのだ。
宗介を傷つけるようなことは二度としないと決めた。
恋心を自覚してから七年余り。最も多感な中学時代でさえ、煩悩を押し殺して数え切れない夜を乗り越えてきたのだ。
ポンコツと言われようと男だ、自分自身に打ち勝ってみせるーーと、那緒が胸に拳を当て、固い誓いを立てていたというのに。
「おい、こら、聞いてんのか」
「あ……、ごめん、聞いてなかった。何?」
低められた声に慌てて返事をする。小さく舌打ちしたあと、宗介は眉根に皺をよせて言った。
「お前もこっちで寝ろ」
その言葉が耳に入った瞬間、那緒は、見事にフリーズした。
オマエモコッチデネロとは。何だっけそれ。どっかの国の首都? ちょっとわかんない。
現実逃避じみた思考は、しかし、黙ってこちらをじっと見ている宗介の視線に、強制的に引き戻される。
「……えっ」
腑抜けた声を漏らして、那緒は大いに慌てた。
「そ、それは、どういう……」
挙動不審な反応を見せた那緒に、宗介は目を吊り上げる。
「変な意味じゃねえぞ! 変なことすんじゃねえぞ! 触ってきたりしたらぶっ殺すからな!」
「え……ええー……?」
情緒もへったくれもない牽制に、那緒はただただ戸惑う。同じベッドで朝までなんて、それこそ拷問だ。生殺しだ。この幼馴染は一体、何を考えているのか。
反論を許さぬ雰囲気でもそもそとベッドに潜る宗介に、那緒は何も言えず。散々葛藤した挙げ句、「早くしろボケ」という声に、半ば自棄で腰を上げた。
自分のベッドなのに敵陣に踏み込むような気持ちで、薄い肌掛け布団を恐る恐るめくり、身体を滑りこませる。
できるだけ端のほうに身を寄せて仰向けに横たわると、見慣れた天井の模様すら変わって見えた。
ほんの少し身動げば触れてしまう距離の体温。
どぎまぎしながらリモコンで電気を消した。無音で落ちてきた暗闇に、自分の心音が響いているような気がする。
「宗ちゃん、狭くない?」
「狭い」
「……聞いといてなんだけど、宗ちゃんが言ったんだからね……?」
わかりきっていたが、ごく一般的なシングルベッドは、男子高校生二人が並んで寝るには手狭だった。宗介と円佳ならまだしも。
寝返りひとつ打つにも、触れずには難しいだろう。意識がないときに偶然触ってしまっても殺されるんだろうか……と考えながら、那緒はそっと宗介に話しかける。
「宗ちゃん」
「ンだよ」
「晩ごはん美味しかった?」
「……ん」
久々に宗介が泊まりにきたので、母が張り切ったのだ。意気揚々と仕入れてきたのは大きなエビだった。思い出したらしく宗介が少し笑う。
「いつまでも俺がエビフライ好きだと思ってんのな」
「ね……何歳だと思ってんだろうね。言っとこうか?」
「いいよ。美味いから。好きだし」
暗さに慣れてきた目が、カーテンの陰影をぼんやり捉える。外は月が明るいようだ。壁との境目が向こう側から照らされていて、スクリーンの枠のように四角く浮かび上がっていた。網戸から入ってくる夜風に時折揺れる。
それからしばらく二人、何も言わなかった。外から聞こえてくる虫の声のほかは、しんと沈黙が降りている。
耳を澄ますと宗介の呼吸の音が聞こえた。規則正しいリズムで、ゆっくりと深く息をしている。
その穏やかさに胸があたたかくなるのを感じていたら、那緒はふと、吸い込んだ空気に薄く漂う匂いに気づいてしまった。
何度か嗅いだことのある、忘れ難い匂いだ。夕飯のデザートに食べた桃よりもっと甘い、熟した果実を潰したような、あの匂い。
那緒は動揺した。間違いなく宗介のフェロモンの匂いだ。
さほど濃くないが、この距離では否応なしに届いてしまう。まずい。正直まずい。
宗介に自覚があるわけもないから、まずいということを理解してもらうには説明しなければならないだろう。怒らせずにわかってもらう自信はないが、このままではあまりに辛い。ただでさえ生殺し状態なのだ。
那緒はおずおずと宗介に尋ねた。
「宗ちゃん、えっと……ヒート、近かったり、する……?」
「……は?」
途端、宗介の声が怒気を帯びたのを敏感に察知して、那緒は焦って続ける。
「だ、だって、イイ匂い、するから……っ」
「匂い?」
宗介が首だけ捻ってこちらを向く気配がした。那緒も同じようにして向き合う。
「あのさ、宗ちゃんさ、たまにすっごい甘い匂いしてんだよ。わかってないでしょ? ほかのアルファの奴に見つかったらどうしようって、俺、いっつも気が気じゃなかったんだからなっ」
勢いづいて言うと、宗介は暗闇の中、僅かに目をぱちくりさせた。すぐに何か言い返してくるかと身構えていた那緒は肩透かしを喰らう。
数秒の沈黙ののち、宗介は「ああ」と納得したような声を出した。
「もしかして」
独り言のように呟きながら、宗介は今度は身体ごと那緒のほうに寄ってきた。
たかが数センチ、されど数センチ。
鎖骨のあたりに顔を近づけられ、那緒は目を見開いて硬直した。
「お前のこれも、アルファの匂いなのか?」
すんすん、と鼻を鳴らす宗介。
那緒の匂いを嗅いでいるのはわかるが、宗介から漂ってくる匂いも、一気に濃くなる。それが那緒にとってどういう作用をもたらすものなのか、この幼馴染は、欠片もわかっていないのだ。
「そ、そうちゃ、ちか、ちかい……」
「ずっと気になってたんだよ。なんか、クッキーみてえな匂い……今もしてんな」
肩を押し戻すことすら躊躇われて動けない那緒の、必死の訴えも空しく。すんすんすん、と宗介は、猫のような仕草でさらに擦り寄ってくる。
そういえば以前にもこんなことがあった気がする。
那緒は魚のように口をぱくぱく開閉させ、油断すればどこかへ飛びそうになる意識を繋ぎとめるだけで精一杯だった。
苦行だ、こんなの、めちゃくちゃだ。手を出すなって? 冗談だろ。
もう、ちゃんと自覚させたほうがいい、宗介自身のために。くらくらしてくる頭でそう考えた那緒は、出し抜けに手を伸ばした。
隙だらけ、むしろ隙しかない宗介の背中に腕を回し、抵抗されるより先に痩身を抱き込んでしまう。そして言った。
「宗ちゃん……、フェロモンの匂いがするって、どういうことかわかってる?」
「………………」
今度は宗介がフリーズする番だった。
この状況になっても尚、すぐには意味を理解できなかったに違いない。
賢いのにこういうことにだけ鈍すぎる宗介に、那緒はいつも振り回されてばかりだ。今日くらいいいだろうと、意趣返しのつもりで回した腕に力を込める。びく、と宗介は身を硬くした。
「は、離せ」
「やだ」
「変なことすんなって言っただろうが……っ」
本気で暴れれば那緒くらい簡単に引き剥がせるくせに、宗介はそうしなかった。絞り出したような声が微かに震えている気がして、那緒の胸に一抹の罪悪感が湧くが、抱きしめた手は緩めない。
宗介の匂いにあらぬ衝動を掻き立てられながらも、「しないよ」と囁く。
「宗ちゃんの嫌なことはしない。もう、絶対……二度としない」
誓って言う。あんなことは二度と起こさない。
宗介自身にも迂闊なところはあるわけだが、それもそばで見張って直させていけばいい。外で危ない目にでも遭われたらたまったものじゃないから。
那緒の腕の中でじっとしていた宗介が、小さく零す。
「ほんとはしたいってことだろ、それは」
「……なんでそんな意地悪言うんだよぉ」
那緒は思わず泣き声のような情けない声をあげた。
したいに決まっている。こちとら片思いを拗らせた健康な十八歳男子だ。本音は今すぐ襲ってしまいたい。
でも、しないのだ。
心底そそられる匂いに包まれている、今この瞬間であろうと、耐えるのだ。
それが好きってことだろう。大切だってことだろう。
そう伝えたいけれど、上手く言葉が出てこなくて、那緒は宗介のさらさらの髪に鼻先をうずめた。
同じシャンプーの匂いがする。
宗介は擽ったそうに首を竦めた。
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