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Only you 2
「しいちゃーーん」
無意識に紫音に助けを求めた瞬間、通勤電車に場違いな暢気な声が響いて、後ろの変態の手の動きもピタッと止まった。
「すいませんちょっと避けてもらえます?すいませーん」
そんな声と共に人垣の奥を頭一つ分抜きん出た金色の頭がこちらに向かって来るのがわかる。
「すいません、すいませんねー。…やっと着いた」
終始ふざけた様な独特の調子であっという間に俺の横までやって来た黒野は、チラッと後方に目線をやると、一瞬呆気に取られて、でもすぐに口を引き結んで突然痴漢の足を踏んづけた。
「イっ!!!」
そして、男の悲鳴に冷たい一瞥を寄越して言った。
「早くその汚いもの仕舞わないと、ちょんぎるぞ」
その声は、痴漢男だけじゃなく、周囲の乗客にも聞こえてしまった様で、俺たちの回りはほんの少しだけ動揺が広がった。が、そう言った当人の黒野が全く我関せずに振る舞っていた為騒ぎにはならなかった。
「しいちゃん、オハヨ」
「…はよ」
何で分かったんだ…?
取り合えず助かったが、生徒に痴漢なんかされてる場面を見られてしまうなんて情けなさすぎる。しかも助けられるなんて。
ともかく何にせよお礼を言いたいと思っているのだが、喋ると空っぽの胃の中身がひっくり返りそうな気がして喋れない。
いつもお喋りな黒野は、察してか否か今日は黙って隣に立っていた。
次の駅で痴漢男が逃げるように降りて行くのを見て、少しだけ気持ちは楽になったけど、吐き気は止まない。そしてようやく、自分達が降りる駅に着いた。
「大丈夫?」
「悪い、ちょっとトイレ寄るから、先に行ってろ」
「トイレならこっち。俺最短ルート知ってるから」
先に行く様促した俺の言葉を完全無視した黒野に手を引かれる。こいつは相変わらず人の話を全く聞いていないと呆れたが、反論を口にする余裕もない。
駅のホームから黒野が示した階段を降りるとすぐ男子トイレがあったから、駆け込んで便器に向かって嘔吐した。朝は何も食べてきていなかったので、出てくるのは酸っぱい胃液ばかりで喉が焼けるようだ。
もう胃液すら出なくなった頃にようやく少し胸のムカムカは落ち着いた。
洗面台で手を…特に右手を石鹸で丁寧に洗って、口を漱いでトイレから出ると、外で待っていたらしい黒野にペットボトルを差し出された。
「飲んで」
「なんで…?」
「吐いたんでしょ?そんな顔色してたよ」
「…悪い」
受け取ったペットボトルを傾けて、一口口に含むと、冷たいミネラルウォーターが焼けた喉と胃にも染み渡る様で、気付いたら半分程飲み干していた。
「これで足りる?」
財布から200円取り出して黒野に差し出す。かなり冷えていたから、黒野はわざわざこの水を買ってきてくれたのだろう。
「これくらいいいのに。でもま、しいちゃんからしたら、俺に奢って貰う訳にもいかないだろうし、受け取っておきますか」
「ありがとう黒野。その……電車の中でも…」
教師として、大人として情けなさ過ぎるけど、助けて貰ったのは事実だ。あのまま黒野が現れなかったら…そう考えるだけでゾッとする。
「いーのいーの。しいちゃんなんかキョロキョロしてて、様子がいつもと違うなーって気になってたら、すっごい真っ青な顔してて。それで慌てて傍まで行ってみたら、後ろのオッサンチャック下ろしてナニ出してるし、もうびっくりしたよー」
「そう…だな」
「あんな大胆な痴漢もいるんだね。俺一瞬ぎょっとしちゃった。しいちゃん今度あんな奴に会ったら、玉握り潰してやればいいんだよ」
黒野の言う通りだ。いくら身動きが取れないとは言え、黒野がやったみたいに足を踏んづけたり、後ろ足で蹴ったり、抵抗しようと思えば出来た筈だ。俺が何ヵ月もやられっぱなしで抵抗の一つもしないから、あの痴漢を調子に乗らせてしまったのかもしれない。
でも…どうしても身体が動かなかった。身体的に不調をきたす程の嫌悪と同時に、強い恐怖を感じて身体が竦んでしまうのだ。
俺は、自分が性的な欲望の捌け口として見られる事が怖い。そうされた途端、自分がただの「そういう対象」として存在しているだけのものに貶められた様な感覚に陥る。
あの男に玩具にされていたあの時の感覚を瞬時に思い出してしまうのだ。
一体いつまで引き摺るのだろう。自分のポンコツ具合が嫌になる。
「俺でかいから、満員電車でも頭は全然窮屈じゃないじゃん。だから、いつもしいちゃん乗ってないかなって探してたんだけど、今日はそれが功を奏したなー」
「助かったよ」
「ほんと?ねえ、俺ヒーローみたいだった?」
「…は?」
「颯爽と現れて、悪者退治してさ。格好よかった?」
黒野は期待に満ちたみたいな目をキラキラさせている。俺にそれを言わせてどうするのだろうこいつは。
「まあ、格好よかったかな」
「まじ!?よっしゃ!」
「格好いい」と言われただけで跳び跳ねるくらいに喜ぶ黒野を見てると、過去の事とかウダウダ悩んでいる自分がばからしくなってくる。いい意味でだ。
「しいちゃんやっと笑ってくれた」
「お前が変な事ばっか言うから」
「でも、格好よかったんでしょ?」
「まあな」
「好きになっちゃいそ?」
「好きって何だよ。お前って本当にお調子者だな」
格好いいなんて、モテるこいつなら言われ慣れている筈だ。同じ様にモテてた紫音は女の子に騒がれてもちっとも嬉しそうじゃなかったけど、こいつは騒がれる事を楽しんでいる。サービス精神が旺盛で、目立つことが好きみたいだ。
「お調子者は嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ俺の事も嫌いじゃない?」
「嫌う訳ないだろ。お前は大事な生徒なんだから」
「……ふーーん。…そういうこと言うんだ」
「何?」
「もういい。しいちゃんのばーか!」
「おい…」
ついさっきまで上機嫌に隣を歩いていた黒野が、突然口を尖らせて走り出してしまった。黒野の背中を見ながら何で怒らせてしまったのか暫く考えたが、答えは見つからなかった。
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