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Only you 4
「お前の言う通りだ。俺は世間知らずだし鈍感だから、お前の悩みも苛立ちも、読み取ってやることができない。だからこうして訊いてるんだ。無理に話せとは言わないが、お前は俺に話したい事があるんじゃないかと思ったんだ」
黒野が顔を上げてようやく視線が交わる。その顔は最近見慣れた膨れっ面じゃなかった。少し上がった口角が挑戦的で、生意気そうなその表情は、普段の黒野の顔だ。
「言いたい事は沢山あるよ。でも、まだ教えてあげない」
「そうか」
黒野は言動や物の見方等大人びた所もあるものの、まだ高校1年だ。何か些細な出来事に苛立ちや焦燥を感じても、それを上手く自分の中で処理できないでいても不思議ではない。思春期というのは、そういう時期だ。本人が言いたくないというのならば、今のところは無理に聞き出す必要はない。
何が切っ掛けか、どうも普段の元気も取り戻した様だし、ここまで話してくれたのだから、きっといつか話してくれるだろうという期待もある。
「そう言えばしいちゃんあれから大丈夫?」
「何がだ?」
「痴漢だよ。あれからは遭ってない?」
「遭ってない」
この話はばつが悪い。どう考えても情けないとしか言いようがないからだ。
だが、黒野が撃退してくれてからは、あのしつこかった痴漢は現れなくなった。姿も見ないから、たぶん同じ電車にすら乗っていない。
「よかったー。それだけが心配だったんだよね」
「心配しなくていい」
「だーってしいちゃんって、なんか守ってあげたくなるタイプじゃん?」
「お前な。大人をバカにしすぎだ。確かにあの時は情けなかったが…」
黒野に嘗められるのも致し方ない。
自分の事すら自分で守れない癖に何が大人だ。
でもそんな卑屈、それこそ生徒の前では見せられない。黒野には実態がバレていたとしたって、教師として虚勢をはるしかないのだ。
「俺、バカになんてしてないよ。さっきは言い過ぎてごめん。気にしないで。ちょっとした八つ当たりみたいなもんだから。しいちゃんの事は尊敬してるし、ファンってのも本当。あ、さっき言ったズリネタってのも、ほんとに一部の奴らだから気にしないでね。ま、男子校だし若干のそれは仕方ないと思ってさ。格好いい『椎名先生』に憧れてる奴らの方が断然多いんだから」
黒野が珍しくしおらしい。それに、俺を励ましているつもりなのか?
「…にしては、お前から尊敬されてる感じが全くしないんだが」
「そんな筈ないっしょ」
「本当に敬ってるなら、まずちゃんと先生と呼びなさい」
「やだ」
「黒野」
「だってしいちゃんの事、先生って思いたくない。先生と生徒っていう距離感がなんか嫌」
「お前はまたそんな事…」
「これだけは譲らない。2人の時以外ではちゃんと椎名センセって呼ぶようにしてるんだから、いいでしょ?」
「たまに呼ばない事あるだろ」
「気を付けるから」
こっちとしては志垣先生の前で間違われると堪ったものじゃないのだが…。
「もう、勝手にしろ」
元々呼び名なんてどうでもいいのだ。黒野が本気で俺をバカにしてそう呼んでいるなら問題だが、たぶんこれはこいつなりの親愛の表し方なのだろうから。それに、黒野とのこのやり取りもいい加減疲れた。
「やった!公認!じゃあ、親しみを込めて春ちゃんにしようかな?」
「それはやめろ」
間髪入れずに拒否する。「しいちゃん」も女のあだ名の様で抵抗があったのに、下の名前で呼ばれるのは流石にいただけない。
「ケチー。まいっか。っていうか、あーあ。俺、もう少し不貞腐れてるつもりだったのに、すっかり元通りになっちゃったじゃん」
「やっぱり不貞腐れてたんだな」
「あ。違う!『悩んでた』の間違い!」
「はいはい、わかった。さ、もうこんな時間だし、そろそろ帰れ」
結局何が原因なのかもよく分からなかったが、何にせよ黒野がいつも通りになったので、もういいだろう。
「しいちゃんはまだ帰らないの?」
「やることが残ってるからな」
「なーんだ。一緒に帰りたかったのに。じゃ、一人寂しく帰るわー。また明日部活でね」
「気を付けて帰れよ」
「それ、しいちゃんにそのまま返す」
「生意気」
「あはは。じゃあね」
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