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Only you 8
1時間弱居座ってしまったパンケーキ屋を後にしてからは、斗士のお気に入りのショップを巡って、夕方別れた。斗士は友人も恋人も多いから忙しいのだ。夕食は『彼女』のうちの一人ととるらしく、「面倒くさい」とか「約束しなきゃよかった」と言いながらも携帯を気にしていたし、彼女から連絡があった時も優しく応じていた。
斗士も一人に絞って真面目に付き合えばいいのに。そんなお節介な事を考えながら電車を乗り継いで最寄り駅に着いたのは、19時過ぎだった。もう12月なので、19時とは言え辺りは既に薄暗い。
秋と冬は、季節としてはあまり好きではない。物悲しい感じがするし、嫌な記憶も呼び覚まされ易いから。
さっきから感じているこれは、この季節が見せる被害妄想だろうか。
後ろを、誰かにつけられている様な気がするのだ。
そのまま家に入るのは気持ちが悪くて、コンビニに立ち寄って雑誌を立ち読みするフリをして暫く自分が歩いていた通りを眺めた。特に怪しい人物はいなくて、帰宅を急ぐサラリーマンや学生が足早に通り過ぎて行くのを見て、気のせいだと胸を撫で下ろす。
紫音は俺に危なっかしいとかもっと注意してとかよく言うけど、言われなくても結構警戒しているつもりだ。俺だって二度とあんな目に遭うのはごめんだから、被害妄想だとか自意識過剰だとか言う自嘲は無視して、年頃の女の子と同じくらい背後を気にしている。
そう言えば、あの痴漢に目をつけられてしまったのは大きな失敗だったな。
今後ああいう事は無いようにしなければならない。
望まない相手から執着されること程恐ろしい事はないのだから―――。
これは考えない様にしている事だが、残念ながら1秒だって完全に忘れた事はない。
『あの男』の消息は未だ不明だということだ。
この事実とあの男の記憶が仕舞われた大きな箱は、俺の頭の中に居座っている。絶対に自らその蓋は開けないけれど、あまりに大きすぎてその存在まで見ないフリは出来ない。どれだけ埃を被ろうとも、片付ける事も、燃やしてしまう事もできず、そこにある事を主張し続ける。
あの男の父親が莫大な金を使って捜させても見つからない所を見ると日本にはいないだろう、と紫音は言っていたけど、警察が指名手配して捜しても、何十年も捕まらずに潜伏している犯罪者だっているくらいだ。絶対に傍にいないという確信は持てない。
――そう。俺が恐れているのは、目立つ事自体でも、多くの目に晒される事自体でもない。あの男の目が、あの男に見つけられる事が一番怖いのだ。
俺が警戒しているのは、あの男の影だ。
紫音にとってあいつは憎悪の対象の様だが、俺を真っ先に襲う感情は恐怖だ。
憎いという感情は途中でどこかに置き去りにされて、自責や羞恥心に成り代わった。そして、それらの感情は未だに俺の中に燻っている。紫音がどれだけ俺を綺麗だと言ってくれても、俺が穢された事実も記憶も無くなったりはしないのだ。
30分程コンビニの雑誌コーナーで時間を潰した後、夕飯にカップ蕎麦を買って店を出る。
コンビニからの帰路では、不審な視線や足音も全くなかった。さっきのあれはやはり気のせいだったのだ。
部屋に入ると同時に着信。
――紫音だ。
今週は紫音は試合の為に地方に行っている。
今日の試合はどうだったのだろう。
金銭的に余裕がない訳でもないので、NBLの試合が見れるチャンネルを追加しようかと考えた事もある。が、見たい反面躊躇してしまう。
テレビを通して紫音を見ると、本当に紫音が高嶺の花に見えるのだ。
俺とは生きる次元の違う遠い存在に見えて、寂しさや孤独感に襲われる。
生で試合を見たときも同様の気持ちになるが、ひと度試合が終われば紫音は俺の傍まで下りてきてくれるから、安心できる。
けれど、テレビではそうはいかない。紫音は、俺には手の届かない高い次元で輝き続けて、俺はそれをただ眺めるだけ。
その図を想像すると少し虚しくて、結局チャンネルは増やさず仕舞いになっている。
紫音がバスケしている姿も、弾けるような楽しそうな笑顔も心底好きなのに、人の心とは複雑なものだ。
俺は到底素直にも甘くもなれなそうだが、「高嶺の花」である紫音に愛想を尽かされない程度には振る舞える様になりたいとはいつも思っている。
今日は、できるだろうか。
取り合えず、来週学校に来てくれる事をとても楽しみにしていると伝えたい。
生徒にバスケを教えてくれる事も勿論嬉しいが、紫音と会える事それだけでも同じくらい嬉しいのだと。
通話ボタンを押すと、いつもの様に弾むような紫音の声が『ハル先輩』と呼んだ。
例えは失礼だが、大型犬が尻尾を振りながら飛び掛かってくる様な歓迎ぶりだ。
俺は紫音のこういう所が好きだ。感情をストレートに表現してくれる所が、安心感を与えてくれる。
好きだと感じたその感情のまま俺も名前を呼んでみたけれど、紫音の様に上手く言葉に感情が乗せられなかった。
それでも、俺のできる精一杯で、紫音に気持ちを伝えたい。脈絡なんて気にしてたら、言えず仕舞いになるから、早い内に。
「俺、来週紫音に会えるの楽しみにしてるよ。早く会いたい」
『――――!!』
紫音の息を呑む気配がして、その直後。
『ハル先輩、どうしましたか!?』
『俺もです!俺も早く会いたくて会いたくて仕方ないです!!』
矢継ぎ早に紫音がそう言って、俺が返事をする間も無く、紫音から沢山愛情表現を受けた。
『会いたい』に始まり『大好き』とか、「早く触れたい」とか、果てには『愛してます』まで。
――俺が甘くなれないのは、紫音のせいというのもあるのかもしれないな。
そんな事を思いながら、くすぐったい位甘い愛の囁きを聴く。この真っ直ぐな恋人が、俺の唯一の存在でよかった。どうか、紫音にとっても俺が唯一であり続けます様に。
囚われていたあの頃は、神なんていないに違いないと思っていた。それなのに、その存在に縋ってしまう位に今が幸せで、紫音との永遠を願わずにはいられなかった。
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