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special to me 3

黒野は、まるで何もなかったかの様にいつも通り練習に参加した。 俺も、それに倣って素知らぬフリで黒野と接した。多少のぎこちなさはあったかもしれないが、上出来だったと思う。 「椎名センセ、居残り…」 「悪い、今日は会議があるから」 練習後にいつもの調子で寄ってきた黒野に、にべもなく断りを入れる。嘘じゃない。今日は本当に会議があるのだ。 「そっか。残念」 俺が内心動揺しているのがあほらしいくらいに黒野は普通だった。 「諦めない」とか言ってたけど、考え直したのかもしれない。黒野は黒野で「やっちゃった」と思って、なかった事にしたいのかもしれない。 それならそれで俺にとっても都合がいい。 なかった事にしたい。あんなのは、黒野の若さ故の暴走だ。本当に、男子校という所は、思春期の男子の精神衛生上よくない所だと思う。消しゴムにすら欲情するくらいだ。男に血迷ってしまっても仕方ない……よな。 そんな、消しゴムと同列になった位の事をいちいち気にしないで、それこそおおらかに、ドシンと構えて、変な方向に向いてしまった気持ちを宥めて軌道修正してやればよかったんだ。それが教師として、大人としての役目なのに、俺は何をしていたんだろう。 * 終業式に関する会議を終えて、荷物を纏めている時に、珍しい人に声をかけられた。 「椎名先生。真っ直ぐ帰るなら、一緒に帰りません?」 ニコニコといつもの笑みを浮かべた中谷先生だ。 中谷先生は部活もクラスも持っていないので、こういう事がない限り帰りの時間が一緒になる事はない。 一人でいると、黒野の事ばかり考えてしまいそうだし、これはいい助け船だと思い、提案に乗る事にした。 中谷先生と伴って校舎を出ると、中谷先生の足は校門とは逆の方に向いた。 「中谷先生?」 「あ、私普段は車通勤なんですよ。電車はお酒飲む日だけです」 「そうなんですか。じゃあ、私は…」 ここで…そう言おうとしたのを中谷先生に遮られる。 「椎名先生の家、きっと通り道だから乗っていって下さい。こんな機会そうないですから、どうか遠慮せず」 そう畳み掛けられて、中谷先生はさっさと駐車場に足を向けた。最初からそのつもりで俺に声を掛けてきたであろう中谷先生に、ここで断りを入れるのも失礼だし、ここで後を追わずに帰るのは以っての外なので、ここはお言葉に甘えるしかないのだろう。 正直、黒野とのあれこれで凄く疲れていたので、助かったなという気持ちもなくはない。 「この車です」 どうぞと助手席を示されて、白のコンパクトカーのドアを開ける。 運転席側に回り込んだ中谷先生が乗り込んだのを見て、自分もシートに腰を落とした。 「すみません、甘えてしまって」 「いいんですよ。私も、一人で運転してるより、誰かと話しながらの方が楽しいですから」 ギアがドライブに入り、裏門から車道に出る。ナビの画面にはテレビが映っていて、ゴールデンタイムのバラエティ番組が放送されていた。 「もうこんな時間ですね」 「そうですね」 時刻は20時。俺にとってはいつも通り…というよりも早いくらいだが、中谷先生にとっては普段よりも大分遅いのだろう。 「あ、部活やってる椎名先生にとっては普通か」 「そう、ですね。最近は居残り練習にも付き合っていたので」 でも、来週からはもうそれもなくなるかも知れないな。血迷った事を恥じた黒野が声をかけなくなるかもしれない。いや、あいつは別に恥じたりはしないか。今日そうだった様に、平然と声をかけて来そうだ。そうしたら、俺も何も知らないフリをして、何もなかったみたいな顔をして接してやろう。そうしてやることが、あいつにとっても、俺にとってもベストだ。 「椎名先生には感心しますよ。授業も評判いいし、あの堅物志垣先生の補佐もきっちりされてますし。部員たちにも慕われているでしょうね」 「どうでしょうか」 志垣先生には相変わらず嫌われっぱなしだし、部員には…黒野には変な目で見られるし、教師としてどうなのかと自信を喪失している。 俺が教職に就いたのは、ある意味成り行きだ。 バスケを辞めようと思った時に持っていたのが教員免許だった。そして、教員採用試験を受けてみたら、受かった。だから、やってみる事にしたのだ。 赴任先にバスケ部がなければ、もしかしたら他の道に進んだかもしれない。スポーツ医学を専門的に学ぶのも面白そうだと考えていたので、他の大学に編入していたかもしれない。 でも、ここにはあったのだ。例え弱小でも、バスケ部が。しかも、丁度指導もできて顧問を務められる先生が数年前から不在だと聞いたので、俺は自分の居場所を見つけた様な気になった。 小学生の頃からずっと、ライフワークの様に続けてきたバスケを辞める事にした時、俺は自分でそれを決めた癖に何かぽっかりと心に穴が空いたかの様な気持ちになっていた。 それを埋めてくれたのがこの場所だったし、だからこそ精一杯自分の役目を果たそうとしてきたのだが…。 「ほら、あの、人を喰ったような生意気な金髪の黒野君も、椎名先生には素直ですし」 まさか中谷先生から黒野の名前が出るとは思わなかった。関わりは無さそうなのに、授業でも受け持っているのだろうか。 「そんな事ないです。私の前でも生意気ですよ」 「そうですかね?でも黒野君、椎名先生に特別懐いてる様に見えますよ」 「一応顧問ですから」 「それだけじゃ無さそうですけどねえ」 ニコニコ顔でこちらに横目で向けるのは探るような目付き。 ああ、そうだった。 この人は、こんな人当たりのいい顔をしながら、ズケズケと人のプライバシーを踏み荒らす人だった。 注意しようと決めていたのに、あれから何もなさすぎて、でも表面上はいい人だからすっかり忘れていた。

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