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special to me 4

「車だと通勤楽ですか?」 中谷先生の視線は一切無視して、話題を変えた。この人と上手くやるには、上っ面の会話だ。それが大事なんだった。 「楽ですよー。渋滞はありますけど、朝の満員電車に比べると全然こっちがいいです」 「確かにそうですね」 「椎名先生は、免許は?」 「大学の時に取ったので、一応」 「今中古なら結構安いのもありますし、あると便利ですよ」 「ですよね。探してみようかな…」 あのしつこい痴漢はいなくなったが、あいつじゃなくとも数ヵ月に1度は遭遇するのだ。お金も貯まってきたし、不快な思いをしてまで電車に乗りたくないし。維持費がネックだけど。 「そう言えばこの間、紫音君もそんな事言ってたなぁ」 「え?」 今中谷先生は『しおん』と言ったのか?しおんって、あの紫音? 「紫音君。車欲しいみたいでしたよ」 当たり前の様に『紫音君』と俺に言うあたり、あの紫音の事なのだろう。けど、何で…。 「先週の土曜日、試合見に行った帰りに昼食ご一緒しまして。その時に車に乗せたら、『いいなぁ』って言ってました」 中谷先生の続けた言葉に俺はますます混乱した。どういう事だ?何で、紫音と中谷先生が昼食なんか。 「…あの、二人は知り合いだったんですか?」 「いえいえ。知り合いっていうか、私は一方的に知ってましたけど。ほら、この前、紫音君静山に来てたでしょう?その時にファンですって伝えたら、番号聞かれちゃって」 え?は? 番号聞かれちゃって?? 「それから試合観においでって言われて、お昼に代官山の凄くお洒落なイタリアンに連れて行って貰っちゃいました」 いつも表情があるのにないに等しい中谷先生の顔が喜びに彩られている。まるで、好きな相手との初デートを語るみたいに、頬を紅潮させて。 「紫音君って、凄く気さくなんですね。ほら、一見クールだから、無口なのかなって思ってたんですけど、可愛い所もあったりして。試合に出てる時とのギャップって言うんですか?とにかく凄く素敵ですよね」 中谷先生の目は、まるで恋する女の子みたいに爛々としていた。まさかこの人は紫音の事を…。 でも、それより気になったのは、紫音が中谷先生の電話番号を聞いた事と、試合に呼んで、『お洒落なイタリアン』に連れていったという事だ。そして、学生時代からファン等の外野に対してはクールだった紫音が、中谷先生には素を見せているらしい事だ。チームメイトでも、友人でもない中谷先生に。 運転席で嬉しそうに紫音の事を語る中谷先生に目を向ける。これまであまり意識した事はなかったが、男性にしては色白で華奢だし、顔の造りも整っている。 紫音は、『男』が好きなのではなくて、俺が好きなのだと言っていた。俺だって同じだから、紫音のその言葉を疑った事はなかった。いや、今でも疑ってはいないが、例えばもしも、性別は問わずに自分の好みの相手が目の前に現れたとしたら、人は紫音と同じ行動を取るのではないだろうか。つまり、携帯番号を聞き出して、食事に誘って…。 いや、そんなバカな。紫音に限ってそんな事、あり得ない。 でも、万が一…。 俺の事はなかなか試合に呼んでくれなかったのに、どうして中谷先生を試合に呼んだりしたのだろう。 別に女の子みたいにムードに拘っているつもりはないが、それにしても最近行った外食と言えばラーメンやうどんや定食屋で、コンビニの弁当で済ます事だって多い。別に不満はなかった。俺だって早く紫音と二人きりになりたいと思っていたから。でも、中谷先生の事はお洒落なイタリアンに連れていったのか…。そう考えると、何か胸がモヤモヤする。 そうして唐突に思い出したのは、黒野の事だった。 自分だって黒野とキスしたじゃないか。しかも、逃げられたのに逃げもせずに。 紫音だけが特別だった筈なのに、俺だって…。 紫音もそうだったらどうしよう。 俺だけが特別なんじゃなくて、他にも特別がいたとしたら。そしてそれが中谷先生だったりしたら。 俺は黒野を紫音と同列になんて考えていないけど、紫音にとってはそうじゃなかったら?寧ろ、新しい特別な相手に、心変わりしたら? 頭の中で勝手に悪い想像ばかりをしてしまうのが止められない。 「―――でもよかった」 「…え」 「椎名先生が紫音君と付き合ってなくて。俺、紫音君の事好きなんです。学生時代からずっと。椎名先生って、傍で見たら遠くから見てたよりも何倍も綺麗だし、その癖隙もあって男受けしそうだし、奪うのは無理かもって思ってましたけど、付き合ってるんじゃないって知ってほっとしました。俺の事、応援してくれます?」 中谷先生は、『俺』と言った。 社会人としての仮面を脱ぎ捨てて、俺に宣戦布告をした。中谷先生には宣戦布告の意図はないのかもしれないが、俺にはそうとしか聞こえなかった。 「でも…紫音は、普通に女の子が好きなんだと思います」 こんな事しか言えないなんて、不甲斐ない。中谷先生みたいに堂々と「紫音が好きだ」と言えばいいのに。 「じゃあ、俺は特別なのかもしれません。紫音君に、気に入られている感じがしますから」 特別。 そう言われて、俺は自分の嫌な予感が全て当たってしまった様な気にさせられた。 紫音の特別は、何も俺でなくてもいいのだ。 紫音には何の傷も穢れもない。 俺にとっての紫音が特別なのとは、訳が違う。 飽きもすれば、マンネリだって感じるだろう。 気持ちが冷める事だって―――。 「椎名先生、ここ、椎名先生の降りる駅です。ここからどう行けばいいですか?」 言われて窓の外を見ると、確かにいつも使っている駅が目に入った。 「ここで大丈夫です」 「え?せっかくだから、家の前まで…」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」 戸惑う中谷先生の言葉は聞かずに、駅前で車を停めて貰った。 頭を冷やしたかった。 中谷先生と一緒にいたくなかった。 紫音。 紫音が俺の元からいなくなったら、俺はどうしたらいい? どうしたら………。

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