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special to me 5

『ハル先輩お疲れ』 「…お疲れ」 『もう家?』 「うん」 『今日は早いですね』 「まあな」 『あれ?なんかちょっと元気ない?』 「いや別に」 家に帰りついてすぐ、紫音から電話がかかってきた。 どうしたって声が堅くなる。紫音は、俺に大好きだと言いながら、他の相手にも同じ様に接しているのか?俺に向けるみたいなとびきり優しい目をして、蕩けそうな程の甘い表情で――。 『俺今どこだと思います?』 紫音は俺の態度に疑問を感じることもなかったのか、少し浮わついた様な声で言った。出先からかけているのか、周囲がざわついている。 そう言えばいつからだろう。 少し前までは、俺が意識してない様なほんの少しの変化にも気づいて心配をしていたのに、それがなくなった。 昨夜は電話に出なかった。 これまでは、電話に出なかったら、次の日の朝とか昼とか、『どうかしましたか』とか、『何もないですか』とかって電話やメールをくれていたのに、今思えばそれもなかったな。 これまで少しだけ煩わしいとすら思っていたそれらがなくなった事が今は辛い。 まるで、心変わりを象徴しているかの様。 そんなの、紫音に限ってあり得ない。紫音の気持ちを疑う自分がどうかしてるんだ。そう思う自分もいる一方で、最悪の想像ばかり膨らんてしまう。 『ハル先輩?』 「分からない。どこ?」 取り合えず会話をしなければ。ちゃんと会話を。 俺の気のせいかもしれないし、中谷先生の事だって、何かの間違いかもしれないのだから。 『北海道ですよ。明日の試合が札幌だから。雪すごい!』 浮わついているのはそのせいか。 試合の為とはいえ、東京とは環境も景色も違う所に行けば誰だって少しは気持ちが高揚するものだ。 『ちょうどイルミネーションしてるから、綺麗ですよ!ハル先輩と…』 『紫音誰と話してるんだよ!』『彼女?』 紫音の言葉に被さる様にそんな言葉が聞こえてきた。チームメイトだろうか。 『うるせぇな!……ごめんなさい、同期です。これから蟹食いに行こうって事になってて、夜遅くなるかもしれないなと思って。ほら、昨日もハル先輩寝てたんでしょ?また今日も声聞けなかったら嫌だったから』 だから、確実に起きているであろう今電話をくれたのか。 大丈夫だ。まだ、紫音は俺に愛想を尽かしてはいない。大丈夫。大丈夫。 昨日の電話の事だって、『ただ寝ているだけ』と解釈できる様になっただけだ。逆にこれまでが普通でなかったのだから、紫音がこの状況に慣れただけ。ただそれだけだ。そう必死に自分に言い聞かせる。 「電話をくれてありがとう」と言おうとしたが、『やっぱ彼女だろ』とか『お熱いね』とか紫音を冷やかす声と、言い返す紫音の声にタイミングを逃した。 賑やかで明るい人達に囲まれた紫音と、静かで寒いこの部屋に一人でいる俺とは、まるで光と陰の様だと思った。 紫音は愛に溢れている。だから、沢山の人に愛されるし、多くの人に光を与えられる。 俺は、紫音に照らされて辛うじて存在しているだけだ。紫音がいるから、自分を大事にしようと思えるし、紫音がいるから過去を引き摺りながらもここまで歩いてきたのだから…。 「わざわざ悪いな。もういいから、そっちで楽しめよ」 『すいません。ほんっとこいつら煩くて。また明日電話しますね』 「分かった」 通話を切った途端訪れる、シーンと音がしそうな程の静寂。 静かなのは、嫌いではない。寧ろ、騒がしい所の方が苦手だ。 なのに、それなのに、さっきまでの賑やかさが恋しい。違う。そうじゃない。紫音が、恋しい。 会いたい。会って、大丈夫なのだと。自分はまだ愛されているのだと確かめたい。 静寂を嫌って、独りになることを恐れて、外に飛び出した。 行く宛なんてない。まさか、北海道に行ける筈もなく。 だけど、今は一人でいたくなかった。 当て所なく歩きながら、斗士に電話をかけたけど、応答はなかった。 俺には、紫音の事を相談できる相手なんて、斗士しかいない。俺の心の闇を理解してくれるのも…。 行く所はないけど、それでも家に帰りたくはなかった。 そう言えば、駅の近くの路地裏に、漫画喫茶があった。入ったことはないけれど、気持ちが落ち着くまで時間を潰すにはもってこいなのかもしれない。 きっとこっちが近道だ。 そう思って一本大通りから裏の通りに入ったとき、背後の足音に違和感を覚えた。 まさか、つけられている…? こんな人通りのない所でようやくそれに気付くなんて。よりによって、この通りを誰一人として歩いていない。 ともかく大通りに引き返そう。そう思って道を曲がったら、背後の足音が走り出した。 思わず振り返った先にいたのは、知った顔。 ――例のしつこかった中年の痴漢だ。

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