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break up SIDE 春 1
正月休み明け、久々の学校。
まだ冬休み中なので、学内を歩く生徒の数もまばらだ。
29日から行く筈だった北海道旅行はキャンセルしてもらった。もう俺には紫音の恋人を名乗る資格はないのだから、行ける筈なかった。
紫音は不満そうだった。優しいから、俺にあからさまに怒ったりはしなかったけど、理解できないという様な、呆れた顔をしていた。
それでも、『実家の自分の部屋』にトラウマを抱えている俺を心配して、連日遊びに来てくれた。
これまでなら、その優しさは凄く嬉しくて心が暖かくなったのに、今は辛かった。これ以上好きにさせないで欲しかったし、紫音が人として出来すぎてて自分が惨めになった。
だから、年明けすぐ両親が旅行に出たのをいい事に紫音に抱いて貰った。
そうしてようやく安心して紫音に甘えられた。紫音はいつも夢中になって俺を抱いてくれるから。凄く気持ち良さそうにしてくれるから。だから、その瞬間だけは、こんな俺にも価値があると思えて穏やかな気持ちになる。優しく頭を撫でられても、惨めではないのだ。
実家から学校に行くのは初めてだったので、早く出すぎたらしい。まだ部員達も誰も来ていなかった。
ガランとした体育館で暫くぼーっとしていたけど、手持ち無沙汰にボールを触ってみると、無性にバスケがしたくなった。
大学を卒業してからというもの、いつもバスケは傍にあったけれど、観客としてだったり、指導者としてだったりで、自分がバスケを楽しむということはなかった。
たまにはいいよな、誰もいないし。
数メートル先のバスケットゴールまでボールをついて走った。本気で走ることなんて本当に久々で、それだけで自分の身体の衰えを感じる。
感覚を思い出す様に、1本目は軽めに。
2本目は目の前にディフェンスがいる事をイメージして、レッグスルーやクロスオーバーしながら再びゴールに向かった。
ボールがネットを潜り、体育館の床にバウンドしたとき、どこからか手を叩く音が聞こえた。
振り替えってみると、入り口に人影が。
「黒野」
「しいちゃんオハヨ」
「…おはよう」
一人だと思って結構真剣に本気でやってたので、それを見られていたのはなんとなく恥ずかしい。もう選手でもなんでもないっていうのに。
「俺いつも一番乗りなのに、ボールの音したから驚いた。でもいいもの見れたなー」
「早く着きすぎたんだ」
「あ、もしかして早く俺に会いたかったとか?」
「ばか言ってるなよ」
「えー。でも、俺は早くしいちゃんに会いたかったな」
そんな風に純真な目で見つめられると、どうしたらいいのか分からなくなる。黒野の目に、自分がどう写っているのか、不安になる。
「…変なこと言ってないで、せっかく早く来たんだから、練習するぞ」
「はは…だね。身体が鈍って仕方ないや」
黒野にボールを投げて寄越すと、少し何か言いたげにこっちを見ていた気もしたが、それでもすぐシュート練習を始めた。
黒野の視線が俺から逸らされた事にほっとする。
いつもの様にフォームを指導したりしている内に他の部員達も揃って、部の練習が始まった。
昼に部活が終わると、また黒野に居残りをせがまれて、小一時間付き合った。
黒野との間には少し色々あったし、黒野がどう考えているのか分からないが、バスケを介した接触には何の戸惑いもなかった。寧ろ居心地がいい。
バスケは、俺にとって唯一人並みに自信のあるものなのだろう。黒野も、他の部員も真剣に俺からスキルを教わろうとしてくれるし、その目は皆キラキラして、夢中になってくれる。
少なくともここでは、俺は何の価値もない人間ではない。身体なんて差し出さなくても、必要だと思って貰える唯一の場所。
「しいちゃん大丈夫?」
自主練を終えて片付けをしている際に、唐突に黒野がそう言った。
「何がだよ…?」
「いや、元気ないじゃん」
「気のせいだ」
「嘘。青木さんの事でしょ?」
「な、何言ってんだよ。なんで紫音が…」
否定しながらも俺は結構慌てていた。どうして言い当てられるのだろうかと驚いていた。
俺がいつもと違うとすれば、それは紫音との関係が大きく変わってしまったせいだ。変えたのは自分自身だけど。
「図星?」
「違うって言ってるだろ」
「でもしいちゃん凄く悲しそうで、寂しそうだ」
「だからって何で紫音が出てくるんだよ」
「ふーん。悲しくて寂しいっていうのは認めるんだ?」
「お前な。別に何でもないよ俺は」
「嘘ばっか。俺が慰めてあげるから」
「はいはい」
「待ってしいちゃん」
ちょうど片付けも終わったし、もうこれ以上からかわれるのも見透かされるのも嫌で、さっさと話を切り上げようとしたら、腕を取られた。相変わらず力が強い。
「俺、冗談で言ってるんじゃないよ」
「そうか、ありがとう。でも本当に何でもないから」
「俺が生徒だから?」
「…何がだよ?」
「俺が生徒で、しいちゃんが先生だから、俺の言う事にいつも真面目に取り合ってくれないの?」
黒野の声のトーンが普段とは違って堅くて、俺は少し緊張して黒野の顔をちゃんと見た。
いつもと違う真剣な顔。訴えかける様な蒼の瞳。
まただ。また、俺の身体は金縛りにあったみたいに動かなくなった。
見つめあったまま、黒野に肩を掴まれて、その顔がゆっくり近づいてきても、それでもやっぱり黒野から視線を逸らせない。
そっと押し当てられる唇は温かくて、優しい。やっぱり似ている。紫音に、似ている。
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