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break up SIDE 春 3

初め控えめだった涙は徐々に増えて、結構本格的に泣き始めてしまった俺を、黒野は黙って抱き締めていた。 最低だ。 自分の蒔いた種でこうなったのに、よりによって黒野に縋っているなんて、本当に最低だ。 いけないと頭では分かっていても、それでもこの優しい腕の中から抜け出る事は出来なかった。 涙が枯れて、頭が痛くなって、多分目も顔も腫れて。それだけ泣いてようやくほんの少しだけ落ち着いて身じろぎしたら、黒野の腕が少し緩んだ。まだ背中に手は回ってるけど、緩んだ分身体を離した。 冷静さが戻ってくると、ひたすらに恥ずかしい。俺はこんなにピッタリ黒野に身体を添わしていたんだ。 黒野の練習着のTシャツの胸のところが濡れてる。仮にも俺は教師で、ここは学校なのに、生徒の胸に抱かれて泣くなんて。 「悪い…」 本当に情けなくて、縮こまって言った。上目遣いで黒野の顔をチラ見したら、黒野は凄く優しい微笑みを浮かべていて、胸がズキンと痛んだ。 「俺の胸でよければ、いつでも」 「黒野、本当ごめん、俺…」 黒野の腕の中から完全に抜け出そうと黒野の胸を押した。背中の腕はするりとほどけたけど、代わりに胸に置いた両手を掴まれた。 何?と黒野の顔を見上げた途端、唇を塞がれる。 「ン…んん…は…っ」 するりと入ってきた舌に、まるっきり油断していた舌を掴まえられた。敏感な所を擦られ、搦められて息が上がる。舌の根元や歯列の裏まで舐められる様な濃厚なキス。最後にちゅっと音をたてて舌を吸われて、唾液の糸を引きながら唇は離れていった。 とても高校生に与えられたキスとは思えない。一体どれだけ経験豊富なのだろう。こんなキスを同級生相手にしたら、その子を腰砕けにしてしまうのではないだろうか。何にせよ、相手は黒野にぞっこんになるだろう。でも、黒野は遊び人だって噂だ。なんて女泣かせな奴なんだ。 …そんな下らないことを考えていないと、火照りそうになる身体を鎮められなかった。 この身体はどこまでも浅ましく淫乱だ。愛してる相手じゃないのに、こんな風に熱くなって。 「しいちゃん、凄く色っぽい」 そう言った声が少し掠れていて、黒野の方が高校生の癖に色気があるなあと思った。 働かない頭でぼーっと黒野に見とれていたら、また顔が近づいた。 「やめ…っ」 流石に慌てて顔を背けて腕を振り払うが、一度は離れた手首をすぐに捕まえられてしまう。 「だめ?」 またあの目。身体が固まる。 でも、これを許したらきっと与えられるのはまた深いキスで、いつもの戯れとは違う。もう洒落じゃ済まなくなる。 「駄目に決まってる」 無理矢理視線を逸らしたら、黒野が「ちぇー」といじけた様に言った。 その軽い声色に俺達の間にあった濃密な空気が薄れてほっとする。 掴まれていた手首も解かれたので、取り合えず一歩後ろに下がった。だって、さっきまで抱き締められていたのだから、俺達の距離はあまりに近い。 「ますますしいちゃんの事、好きになっちゃったなー」 「だから、そういうのやめろって」 「大丈夫。二人きりの時しか言わないから」 「二人の時もよくない」 「それは無理」 「黒野。はっきり言っておくけど、俺はお前の気持ちに応えるつもりはない」 「いいよ。今すぐでなくても」 「どういう意味だよ」 「しいちゃんがあいつの事忘れるまで待つから。あと、気になるなら俺がしいちゃんの生徒じゃなくなるまで待ってもいい」 「何バカなこと」 「本気だよ」 「……さっきはごめん。俺、お前にあんな事してもらうべきじゃなかった」 黒野には正面切って告白されたのだ。それに応えられないのにその相手に縋るなんて、人間として最低だ。弄んでるとか言われてもおかしくない。 「謝らないでよ。しいちゃん抱っこできて嬉しかったし、キスも美味しかったし」 「や、やめろよ。そういう言い方」 「あはは。しいちゃんまた頬っぺ赤くして可愛い」 黒野の台詞に更に頬がカッとなる。可愛いって黒野はよく言うが、10近く年上の、しかも男が可愛い訳ない。 「しいちゃんは俺を好きになるよ」 突然黒野が言った。 さっきから一体何を根拠に。どうしてそこまで自信満々にそんな事言えるのか、俺には不思議で仕方ない。 でも、その反面羨ましい。自信に満ちた人間は、輝いて見えるから。 「何でそんな事言えるんだよ」 「だってしいちゃん俺の事嫌いじゃないでしょ?」 「そりゃあ、嫌いじゃないけど」 「俺とキスするのも嫌いじゃないでしょ?」 「き…嫌いだよ!」 「嘘ばっか。だって、あの変態といた時みたいな青い顔してないよ。それどころか赤い…」 「うるさいな!だからって嫌がってないとは言えないだろ!もう二度とするなよ!」 恥ずかしい。黒野にはどうして全部見透かされるのだろう。 黒野の前でまた赤い顔をするのは嫌なのに、頬が熱い。恥ずかしすぎる。 でも断じて俺は黒野とキスしたい訳ではないのだ。 黒野とそういう関係になんて、絶対なりたくない。 俺は紫音が好きで、紫音にとっての2番だろうと3番だろうといいから紫音の物でいたい。 だから、紫音以外とはキスだってその先だって、本当はしたくない。したくないけど…。 でも、そう言えば黒野の事は拒絶できる。嫌だって言える。どうしてかな…。 「しいちゃんほんとに可愛いね」 「可愛いって言うのやめろ」 「だって可愛いもん」 「可愛い訳ないだろ」 「えー?可愛いよ?」 「可愛いくない」 「可愛い」 「お前な…」 黒野とはいつもこんなやり取りになって、最後には呆れてしまうが、それにほっとしている自分に気付いた。少なからず気分が持ち直した事にも。 「もう帰るぞ」 「あ、俺着替えてくる!待ってて」 黒野は俺の返事を聞かずに更衣室に走っていった。 本当は待たずに別々に帰った方がいい。 けれど、みっともなく黒野の胸を借りておいて無視して帰る事なんて出来なかった。 でも、それから駅に着くまで黒野は、俺を好きとかそういう事は一切言わず、態度も普段通りで、さっきまでの真剣な顔が嘘みたいだった。 「しいちゃん引っ越したのって、もしかしてあれ?あの変態のせい?」 「…別にそういう訳じゃない」 正にその通りだったが、あんな奴から逃げてると知られるのは格好悪い。 「ふーん」 「じゃあ、俺こっちの電車だから…」 「待って」 改札を抜けて、反対方向に向かおうとしたら、また黒野から腕を取られ振り返る。 目が合うと、黒野はにっこり笑った。優しい微笑み。言葉はなくても、俺を好きだと語っている様な。 「また明日ね」 胸がズキンと痛む。さっき感じたのと同じ痛み。 これはきっと罪悪感だ。 黒野の真っ直ぐな想いに、応えられないなりにちゃんと向き合ってやりたいのに、向き合えない。 自分の事で精一杯なのだ。余裕がない。黒野の事を、ちゃんと考えてやれない。 俺の頭の中は、紫音の事ばかり。紫音と、自分の事ばかり…。 電車に乗り込んで携帯を見たら、紫音から凄い数の着信が残っていた。 メールは一通だけ。『練習終わったら行きます』 沢山泣いたのと、そして黒野のおかげで冷静になれた。 俺は、やっぱり紫音が好きで、でも、紫音と対等にはなれなくて。 だって俺はまた誰かにそういう対象にされたら、逃げ切れない。拒否できない。それどころか、そうされることが自分の役割だとすら感じてしまう。心底軽蔑する。自分を。 だから、よかったのだ。紫音には、俺なんか似合わない。可愛くて誠実で、後ろ指を指されることもない女の子と付き合うべきなんだから。 でも、紫音にもう会わないと言われたらどうしよう。もう紫音に抱いてもらう事もなくなったら…。 考えただけで目の奥がつんとするけど、もしそう言われたら、諦めるしかないんだ。俺は相応しくないから。 もう泣いちゃいけない。紫音は優しいから、同情して俺を見捨てられないかもしれない。だから、何があっても涙なんか見せちゃいけないのだ。

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