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but after all… 3

「紫音君、こっちだ」 バーの中には新井田社長と、バーテンダーだけだった。カウンターと、テーブルも3つ置かれていて、30人くらいは座れそうな広さの中、社長は一番奥のソファに一人でゆったりと座っていた。 「お待たせしてすみません」 「いや、いいよ。あ、こっちに座るといい」 テーブルには、社長が腰かけるL字型のソファの他に椅子が2脚備わっていたので、社長の正面にあたる椅子に腰掛けようとした。が、それを社長に止められ、ソファを勧められた。 秋良に言われた言葉がこんな時に甦る。あいつ、俺が動揺するのを狙ってあんな事言ったんじゃねえだろうな。 何にせよ、あいつの言った事なんかに心を乱されるのも、変に緊張するのもバカらしいから、社長の言う通りソファに座った。社長とは斜向かいになる。 テーブルの上には、さっき俺が飲んでたゲロ甘カクテルが用意されていた。ここはこれしか飲み物がないのか? 「話は聞いてるか?来期のうちの広告塔の件」 「はい。でも俺でいいんでしょうか…?」 「君の活躍は目覚ましいし、スター性も人気ある。醜悪なスキャンダルもなくてクリーンだし、君こそ相応しいと俺は思ってるんだが、どうかね?」 「身に余る光栄です。精一杯やらせて貰います」 「そうかそうか。よかった。日本では野球やサッカーばかりが持て囃されてるが、バスケだってこれからはもっと注目されるべきだ。バスケの競技人口は、野球、サッカーに次いで多いんだよ。それなのにバスケは将来性のないスポーツとか言われている。協会がしっかりしていないから………先ずはリーグ統合して…………」 社長の熱弁が続いた。 バスケをしている全ての少年達の夢を背負って欲しいとか何とか。 新井田社長も若い頃はバスケをしていたらしく、バスケ愛溢れる素晴らしい話だった。 俺は卒なく話を合わせ、頷き、共に嘆き、共感し…と表面上は多分上手くやれたと思う。 が、正直今の俺はバスケへの純粋な情熱なんて殆どなかった。今俺がここにいるのは、オーナーやチームメイトへの恩義と責任だけ。 俺はハル先輩がいなければまるで脱け殻だ。 ハル先輩がいてくれないと、俺の人生に輝くものなんて何もない。 「ところで紫音君」 「はい」 「君は恋人はいるのかな?」 「え?…あの、います。一応」 ハル先輩がどう言おうと、俺は別れたつもりなんてない。 そうだ。そうなのだ。別れてなんかいないんだから、逃げてどうする。ハル先輩だって、俺の事嫌いじゃないって言ってくれたじゃないか。 「セックスは、満足してるか?」 「…は?」 突然すぎる社長の発言に俺は固まった。今この人何て言った? 「誤解しないでくれ。さっきも言った様に、広告塔ってのは、クリーンなイメージでなきゃいけない。恋人一筋なら何の問題もないが、君みたいな有名人になると色々誘惑も多かろう。忙しくて恋人と会う時間も制限されるだろうし、そんな時溜まってたら、手近な相手で済まそうと思ったりするものだろ?そういうのが積もり積もって遊び人だとかいう噂が立つと困るんだよ」 「それは大丈夫です。俺は恋人の事しか考えてませんから」 「それで、セックスは足りてるのか?」 飽くまでそれを聞くか。でも、多分社長は真面目に言っているのだ。俺も真剣に答えた方がいいのだろう。 「確かにお互い忙しくてそう頻繁には会えませんが、会った時はちゃんと満足してますから」 「そうか。週に何回くらい会うんだ?」 「週に…っていうか、月に2回くらいです」 「そんなんじゃ足りんだろう。君若いんだから」 「俺、記者に追われてるらしいから、恋人に迷惑かけたくなくて…」 「そうか。君は恋人想いで誠実で素晴らしいな。益々魅力的だよ。でも、正直足りんだろう?」 「まあ…多少は」 何でこんな事、真面目なトーンで打ち明けなきゃならないのだろう。なんか凄く嫌になってきた。 「欲求不満っていうのは、諸悪の根源なんだよ、紫音君。恋人に誠実なのもいいが、適度に不満を解消しないと」 「はあ…」 この人、さっきは遊び歩かれたら困るって言ってなかったか? 「記者が口もカメラもペンも出せない場所があるんだが、興味はないかい?」 「え?」 「興味があるなら、君を招待するよ。暴力以外は何でもアリな所」 いよいよ胡散臭くなってきた。真面目な話だと思ってこういう話に乗ったのがそもそも間違いだったのだ。 「俺は本当に恋人だけがいいので、そーいうのには全然興味ないです」 「そう言わずに。新しい扉が開けるかもしれないよ?」 「いや、本当に結構です」 もう戻りたい。広告塔の件の話はもう済んだのだろうか。もう腰を上げてもいいだろうか。 考える前に行動すべきだった。 俺より先に社長が腰を上げて、俺の隣に腰掛けた。 秋良の言った事を嫌でも思い出す。 反射的にバーカウンターを見たら、来た時にはいた筈のバーテンダーがいなくなっていた。 「紫音君、男は知ってるか?」 社長に太股を撫でられ、ゾゾ…と一瞬で全身鳥肌が立った。 「さっき話してた場所、男しかいないんだよ。興味ない?」 「興味ありません」 「紫音君こーいう甘いカクテル好きなんだろ?こーいうの好きな子はハマる子多いんだよ」 「いや、俺これ嫌いです」 「いいんだよ、誤魔化さなくても。最初から大勢が怖いなら、俺が特別に二人きりで指導してやってもいい。ん?どうだ?」 鳥肌と冷や汗が凄い。 相手が権威ある人間だというのも多分にあるが、そうでなくてもこの状況はゾッとして身体が上手く動かなくなるんだ。知らなかった…。 ハル先輩は、こういう目に何度も遭ってるのか。こんなもんじゃなく、これ以上の気持ち悪い事だって、何度も、何度も…。 「勘弁してください。俺本当に無理なんで」 「1度も試さずに無理なんて駄目だよ。うちの広告塔務めたいなら、これくらいの人生経験積まないと」 これは脅しか?それ込みじゃないと広告塔の話はなくなると言いたいのか? ふざけんな。 オーナーにもバスケ界の輝かしい未来にも申し訳ないが、自分の身を犠牲にするつもりはない。 力を奮い起たせて太股を撫で擦る社長の手を払いのけ、立ち上がった。 「広告塔のお話、結構です。俺はそんな事のために身売りするつもりはありませんから」 「…後悔するぞ」 「しません」 背中に視線を感じながら、バーカウンターを後にした。 気持ち悪いし、鳥肌もまだ治まらない。 一番衝撃的だったのは、自分が男から性的な対象として見られたという事だった。触られた事よりも何よりもそれがショックで、まだ何もされてないのに自分を穢されたかの様な気分に陥った。 俺はそんな自分の気持ちを冷静に観察していた。 ハル先輩は本当に奇跡みたいに綺麗だから、男からそういう対象にされやすい。 7年前のあの事件だって、ハル先輩が綺麗だから、とんでもない変態に目をつけられて起こった事だ。 その後だって、ハル先輩をそういう目で見ていた奴が沢山いたことも知ってるし、中には実際に襲いかかろうとする様な危ない奴だっていた。 でも、ただそういう目で見られるというだけでこんな感情になるなんて、知らなかった。 たったこれだけの事でこんなにもショックを受けるなんて、知らなかった。 男であるにも関わらず性的に蹂躙され続けたハル先輩の心の傷は、一体どれだけ深いのだろう。 今も尚、どっかの変態のおっさんとかの不特定多数にそういう目で見られ、しかも実際にキスされたり身体に触られたりした事は、どれだけハル先輩の心を傷つけていたのだろう。 ハル先輩がおかしくなったのは、きっとトラウマが再燃したせいだ。 ハル先輩を襲ってキスした変態が、ハル先輩の傷を抉ったのだ。そしてそれを俺が掘り返して、愚かな嫉妬心でハル先輩を責めて、更に傷つけてしまったのだ。ハル先輩はそれを否定したけど、そうとしか思えない。 トラウマがどう作用して俺と別れるという結論に至ったのかは分からないが、ハル先輩の事だから前みたいに『自分は汚い』とかそんな風に思っているのかもしれない。 ハル先輩を救わないと。 大丈夫、できる。 あの男の檻から助け出した直後だって、俺はハル先輩を救えたんだから。 ハル先輩はこの7年俺と居て、幸せそうにしていたじゃないか。 ハル先輩が俺の事どうでもいいとか、そんなに好きじゃないとか、そんな筈ないじゃないか。俺まで卑屈になってどうする。 オーナーに一言「帰る」と告げ、ホテルを出た。 アウルムの広告塔の仕事は、恐らく破談になるだろう。無責任だと詰られようと、俺にとって一番大事なのはバスケでもオーナーでもチームメイトでもない。ましてアウルムの広告塔など、心底どうでもいい。 タクシーに乗り込んで、あまり言い慣れてない舌を噛みそうな名前のマンション名を告げた。 静かに車は走り出す。

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