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but after all… 4
『紫音君?』
エントランスのインターフォンに対応したのは、明るい女性の声だった。
「夜分遅くにすみません。春君いますか?」
『いるわよ。今開けるからね』
自動ドアを抜けて、エレベーターで10階に上がる。
もう迷いはなかった。
エレベーターが開くと、玄関の前にはハル先輩が立っていた。
スウェットパンツにパーカーという部屋着姿の、それでも相変わらず綺麗なハル先輩。
俺は声を掛ける事もせずに…というか出来ずに、ハル先輩の身体を思いっきり抱き締めた。
玄関のドアの向こうにはハル先輩のお母さんがいて、いつドアが開くとも知れないけど、それでもそうせずにはいられなかった。
「ハル先輩、ごめん。ごめん…」
俺にはハル先輩の全てを理解することはできない。でも、それは俺だけじゃなくて、誰だってそうだろう。誰だって、他人の考えが100%分かる訳じゃない。
特にハル先輩は、特殊な体験をし過ぎていて俺の物差しじゃ測れない事の方が多い。
でも、分かり合えない事で別れなければならないなんて、そんなのは嫌だ。
100%分からなくても、分かり合う努力をしたい。
ハル先輩の為なら、俺はどんな努力だって惜しまない。
そっと身体を離すと、ハル先輩は泣きそうな顔をしていた。
「ちょっと外出ませんか?」
「……上着、取ってくる」
ハル先輩の姿が玄関の中に消える。ハル先輩の姿が見えなくなるだけで、どうしてだか消えていなくなる気がして不安だ。
でも、ハル先輩はすぐに出てきた。
さっきのパーカーの上からPコートを羽織っただけの姿だ。
二人して無言でエレベーターに乗り込んで、エントランスを抜けて、どこに向かうでもなく並んでゆっくり歩いた。
「ハル先輩、ごめんね。連絡しなくて」
「……仕方ないよ」
「え?」
「だって紫音、俺の事嫌いになったんだろ。だから…」
「嫌いな訳ない!」
「…え」
「俺がハル先輩を嫌いなんてなる筈ないじゃないですか!…確かに、あのセフレ発言は堪えたし、かなり腹もたったけど、嫌いになんかならない!」
「そんな…。嘘だ」
「嘘じゃない。俺はハル先輩を愛してます」
「…なんで…」
「何でって言うなら、聞きたいことは俺の方が山ほどあるけど、今日はハル先輩に愛してるって言う為に来たから、詮索はやめておきます」
「紫音…何で…何でだよ…」
ハル先輩は突然涙をポロポロ溢した。本当にいきなり、大粒の涙を、沢山。
俺は慌ててハル先輩を抱き締めた。ハル先輩は「汚いから離して」と頻りに言って身を捩ったけど、俺は離さなかった。もう何があっても離すつもりはないのだと、わかって欲しくて。
「大丈夫。ハル先輩は綺麗だよ。どこも汚い所なんてない。俺、ハル先輩の心の傷にちゃんと向き合う。もう変に嫉妬したりとか…は少しはするかもだけどなるべく抑えるし、もう忘れろとか思い出すなとか言わない。ちゃんと向き合って、二人で乗り越えて行こう?」
この7年間、ろくにあの頃の話をしなかった。ハル先輩だって思い出したくなかっただろうし、俺も忘れさせたい一心だったから。
でも、もうそれじゃ前に進めないのかもしれない。
その傷の上からどんなに楽しい思い出や幸せな記憶を被せても、ジュクジュク膿んでるこの傷を治すことは出来ないのかもしれない。
「大好きだよ。愛してる。ハル先輩が何て言っても、俺にとってはハル先輩が世界で一番大事。愛人でもセフレでもない。大切な大切な恋人です。だから、ハル先輩ももう恋人じゃないとか悲しいこと言わないで」
肩を震わせただ涙を流すハル先輩の髪に沢山キスしながら言う。
やっぱりハル先輩だって俺をちゃんと好きなんだ。だからこうして涙している。
好きなのに別れる事を選ばなければならないくらい自分を責めて卑下するなんて、ハル先輩はどれだけ苦しんだろう。
ハル先輩が汚いなんて、そんなのあり得ないのに。この髪の毛一本とったって、誰よりも美しい。くすんだ所なんてこれっぽっちもない、純白の天使みたいな人なんだから。
ハル先輩の肩が揺れなくなったのは、10分くらいしてからだった。その後も暫く抱き締めていたけど、冬の夜風は冷たくて、ハル先輩の身体もだんだん冷たくなってきた。
「家に帰りますか。お母さんも心配してるかもしれないし」
俺が身体を離すと、ハル先輩は俺の胸から無言で顔を上げた。
真っ赤に泣き腫らした目が痛々しい。
「俺、消えてなくなりたい」
ポツリとハル先輩が溢した。凄く力のない声。
きっと一人で沢山悩んだんだろう。そんな風に思うまで悩んで苦しんでいたハル先輩を2週間も放ったらかしていた俺はなんてバカだったんだ。
「そんな事言わないで。大丈夫だよ、俺がついてるから」
「俺は紫音に相応しくない。凄く汚いんだ…」
「そんな事言わないで。今度ちゃんと話そう。ゆっくり時間作ってさ。俺は、何があってもハル先輩が好き。恋人やめる気ないよ」
ハル先輩は、相変わらず悲しそうな顔をしたまま俯いて何も言わなかった。
ハル先輩の心の中を、開いて覗けたらいいのに。そうすれば、俺が今なんて声をかけてあげれば、ハル先輩を笑顔にできるのかがすぐにわかるのに。
元から大して遠くまで来ていなかったから、マンション前に到着するのもあっという間だった。
本当は、後日と言わず今すぐにでも話をしたいが、こんな深夜と言ってもいい時間帯にハル先輩の実家にお邪魔する訳にもいかないし、ご両親の手前どこかに連れ出すのも気が引けた。
「ハル先輩、俺、来週の土日オールスター戦があるから今少し忙しいんですけど、それが終われば落ち着くから、沢山会いに来ますね」
ハル先輩は何も言ってくれなかった。俯いていて、その表情すらよく分からない。
「じゃあここで」そう言うとようやく顔を上げて、「来週がんばれよ」とだけ言ってくれた。
そのままエントランスに消えるハル先輩の後ろ姿を見送った。
これでよかったのか、分からない。自分の気持ちを伝えるという目的だけは達したけど、一方的過ぎただろうか。ハル先輩の心の傷は、きっと直ぐに癒えるものじゃないから、ゆっくり関わろうと思っているが、それにしたってもっと追求すべきだったろうか。でも、追求した所であのハル先輩の感じからして恐らく答えてはくれなかっただろうし…。
堂々巡りだ。いくら考えても答えは出ないから、俺のやり方は正しかったのだと思い込む事にした。
そうしないと前に進めない。
ハル先輩を絶対に失いたくないから、俺はただひたすらに前を向くしかないのだ。
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