123 / 236
scandal 1
あいつが、笑っている。
下卑た笑みを浮かべながら、こっちに手を伸ばす。
部屋に突き飛ばされて、服を剥ぎ取られ、ベッドの上できつく縛り付けられた。
逃げられない。身体が動かない。
笑っている。あいつが、とても楽しそうに――――。
「…………なさん………椎名さん!」
大きな声に我に返ると、目の前にはあいつではなく先生がいた。
「大丈夫ですよ、ここは安全です。あなたに危害を加える人は誰もいません」
辺りを見回して、ようやくここがどこか思い出した。先生のカウンセリングルームだ。俺が腰かけているのは、白いリクライニングソファ。
我に返ると、自分の心臓が早鐘の様になっている事や、額にかいた汗にも気づいて、深呼吸して汗をぬぐった。
「どうぞ」
「……すみません」
先生が差し出してくれたタオルは、冷たいおしぼりだった。額にあてると、その冷たさが気持ちよくて、ほんの少しだけ気分がスッキリした。
「吐き気は大丈夫ですか?」
先生がガーグルベースンを手にしながら心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「……今日は、大丈夫そうです」
「そうですか。少し進歩ですね」
進歩と言われても、吐かなかっただけで今回だって我を失ってしまったし、とても平常心でも冷静でもいられなかったから、喜んでいいのかわらかない。
「数回のカウンセリングで劇的に変わる人なんてそういないんですよ。その人の受けたトラウマの強さにもよりますが、年単位で治していかないと」
「そう……ですよね」
「そうです。ほんの少しの進歩でも、確実に良くなってきている事を喜びましょう」
「はい」
「それじゃあ、今日のワークをしていきましょうか。今日のフィードバックで得たのはどんな感情でしたか?」
「……怖い………恐怖です」
「怒りや、悲しみはありませんでしたか?」
「分からないです。ともかく、怖くて…………」
話している内に、また当時の恐ろしさが蘇ってくる。ガタガタ震え出す身体を俺は両腕で抱えた。
「大丈夫ですよ。今は、何も怖い事なんてない」
先生が優しく言う。
俺も精一杯自分に言い聞かせる。怖くない。怖くない。今はもう、何も怖いことなんてない。
「落ち着きましたか?」
「……少し」
「よかった。今日はここまでにしましょう。何も急ぐことなんてありませんからね。落ち着くまで、雑談でもしていきましょう」
先生がニッコリ笑って席を立った。いつもの様に奥のカウンターでお茶を入れてくれている。
樫野先生のカウンセリングを受ける様になって、今回が7回目。
受ける様になったきっかけは、紫音だ。
紫音に、お願いされたのだ。
俺も、自分が少しおかしいのは自覚していた。変わりたいと思っていたし、自分の心がけ次第で変われるものだと思っていたけど、紫音曰くそんなに簡単な事じゃないと。
俺の心の問題の根深さは、本当は自分自身が一番よく知っていた。知っていたけれど、治療とかセラピーとか、そういうものからはこれまで逃げてきていた。
それは、あの時の事を思い出すのが怖かったのもあるが、でも一番大きいのは、カウンセラーだろうと医者だろうと誰かに自分の秘密を知られたくなかったからだ。
でも、もうそうやって逃げてばかりいてはいけない。もう二度と紫音を傷つけたくはないから。
紫音は、ずっと以前から俺の治療について考えてくれていた様で、俺が「受ける」と答えるとすぐに樫野先生を紹介してくれた。
樫野先生はその道の権威で、犯罪被害者のカウンセリングなんかも受け持つ事があるそうだ。
紫音のチームのオーナーの古くからの友人らしく、そうでなければ思い立ってすぐに診察を受ける事なんてできなかっただろう。
初めてのカウンセリングには、紫音がついてきてくれた。
紫音は毎回ついて来るつもりだったみたいだけど、ある事情で2回目からは俺一人で通っている。
「今日はカモミールティーにしました。安眠のハーブですよ」
先生に渡されたカップからは甘いリンゴの様ないい薫りがした。色も、リンゴジュースの様な黄色味がかった透明だ。一口飲んでみると、香りとは違って結構苦味を感じた。
「俺……こんな調子でよくなるんでしょうか……?」
「焦りは禁物ですよ」
「でも……」
「大丈夫です。時間をかければ必ず良くなります」
「もっと早く来ていれば……」
少なくとも、柚季との事が起こる前に治しておけばよかった。
そうすれば、俺はあんな事をせず、紫音を傷つけることもなかったのに……。
「椎名さん。物事には全て理由があるんですよ。椎名さんにとって今が最良の時期だから、今こうして過去と向き合っているんです。今がベストです。遅くも早くもないんです」
「………」
「大丈夫。あなたの大切な人は、どれだけ時間がかかろうと待っていてくれますよ」
「え……」
「初診に付き合っていた彼がそうでしょう?あなた以上に真剣に私の話を聞いていたし、あなたが催眠状態の時も、恐慌状態の時も、あなたと同じくらい辛そうにしていましたよ。彼は、あなたを心から愛しているのですね」
先生がニッコリ微笑んで、苦いカモミールティーを美味しそうに飲んだ。
――――全てお見通しという訳か。
カーッと顔が熱くなる。恥ずかしくて先生の顔が見れない。
早く気持ちを落ち着けたくて、あまり美味しいと思わなかったお茶を黙々と飲むことしかできなかった。
ともだちにシェアしよう!