146 / 236
blackout 1
いつからだっただろう。
紫音の前で、以前よりも少しだけ素直に振る舞える様になったのは。
紫音が俺を愛してくれている。認めてくれている。だから、俺は紫音の隣に立っていていいのだと思える様になってきたのは。
卑屈でも、無理矢理背伸びして虚勢を張っている訳でもない。こんなに満たされて、こんなに幸せで、幸せ過ぎて怖かった。でも、紫音がいれば何も怖くないとも思った。
いつも霞みがかって不確かだった未来は、確かに晴れ渡っている筈だった。それなのに――――。
そんな幸せが急速に遠ざかる。そうして、俺の大切な一部は――――。
何…?
生温い液体が頬に落ちて目が覚めた。でも、真っ暗だ。何も見えない。目隠し…?
触って確かめようとしたものの、上手くいかない。胸元にある手が、動かない。足も。どうやら両方とも何かで括り付けられている。
背中は冷たくて固い。屋内の様だけど、フローリングみたいに滑らかじゃない。もっと無骨で、もっと冷たい。コンクリート…?
俺は一体―――――。
――――そうだ。思い出した。俺は、以前柚季が話していたその通りにワゴンに拉致された。本当に一瞬だった。声も挙げられなかった。そしてすぐに何か薬を嗅がされて、意識を失った。
「次、俺いく」
思い出してパニックになりかけた時、また生温い液体を顔にかけられた。段々と調子を取り戻してきた感覚器官が、その性状や臭いを伝えてくる。
「俺もそろそろ」
また……。
声の聞こえた方から咄嗟に顔を背けた。幸い、首は動いた。
「あ、こいつ起きた?」
だが、首が動いたくらいでは、完全に逃げることなんてできなかった。髪に何かがパタパタと降り注いだ。
「ははっ、きったねえ!」
「うっ…げほっ」
芋虫みたいに拘束された身体を横に向けて縮こめると、頬に付着していたドロドロが口元に流れてきた。吐き気がする。顔中にあれがこびりついていてとても臭い。汚い。怖い。
なんで…どうしてこんな事…。
「なんで……」
口が乾いて、喉の奥に痰が絡んだみたいな掠れた声が出た。聞きたい事は沢山ある。一体何人に取り囲まれていて、目的はなんなのか。俺をどうするつもりなのか。でも、身体が震えて、声が震えて、それ以上言葉を発する事ができない。怖くて堪らない。視界を奪われる事がこんなに恐ろしい事だなんて知らなかった。だってもしも今ナイフを向けられていたとしても、俺がそれを知る事ができるのは、刺された後になってからなのだ。
「なあ、服脱がさねえ?ただぶっかけるだけじゃ気分出ねえよ」
「なんだよ2発目やる気か?」
「せっかくおキレイな顔してんだから、目隠しも取りてーよなぁ」
「そりゃまずいだろ」
「服は?」
「服は…いいんじゃね?西本さん達戻ってくるまでに着せりゃバレねえよ!」
そうだよな。そうしようぜ。早く脱がせろ。おい誰かついでに犯してやれよ。そうすりゃまたいっぱいぶっかけてやれるぜ。
自分の周りで男達が口々に言う。そして、四方八方から手、手、手。縮めていた身体を無理矢理に開く手。ベルトをカチャカチャ鳴らし、上着のボタンを乱暴に外す手。
「やめ…っ」
芋虫状態の俺の言葉なんて誰も聞いちゃいなかった。げへへとかひひひとか、下卑た笑い声しか返ってこない。
「おいてめえら!何してる!」
「あ、西本さん」
遠くから怒鳴り声がして、俺の事は完全無視だった男達が一気に大人しくなった。ようやく、手から――手の気配と感触から解放された。
「お前らは猿以下か!?ターゲットには触るなと言っただろうが!」
「うっ!」
「ったく、ちょっと目を離せばこれだ」
ニシモトという男に殴られたのか蹴られたのか、男達のうめき声が6回続いた。俺の回りに最低6人の男がいる。声の響き具合から、相当広い場所の様だし、ニシモトはこっちの様子がすぐにはわからない離れた所にいた様だから、もしかしたらそこにも他に何人もの人間がいるのかもしれない。
「おめーら全員終わったのか?」
「は、はい!」
「じゃあもう終いだ。兄ちゃんから離れな」
ニシモトのその命に男達は威勢よく返事して、沢山の足音が離れていった。
「わりーなぁ兄ちゃん。躾がなってなくて」
ニシモトが、恐らく俺のすぐそばに屈んだ。胸元に手が触れたから、自然と身体が震えた。
「そう怖がるなよ。俺達はもう何もしやしない」
胸元に触れたニシモトの手は、その言葉の通りに外されたシャツのボタンを留めている様だ。
「じゃあ、帰して…ください」
俺の掠れた声はあまりに小さくて聞こえづらかったのか、ニシモトは「あん?」と聞き返して、それから鼻で笑った。
「それは俺が決められる事じゃねえよ」
そう言ったきりニシモトは黙った。まだ終わりではない。まだ何かされるんだ。ニシモトが言っていたターゲットっていうのが俺の事なら、俺をこんな目に遭わせる様依頼した誰かが他にいるんだ、きっと。一体誰が。中谷先生?それとも………。
「あ、先生。こんな具合で如何ですか?」
ニシモトが立ち上がった気配と、誰かが近寄ってくる気配を同時に感じた。ニシモトと入れ替わりに、誰かが傍に屈んだ。
「何人分だ?」
うそ―――――。
「6人……あ、いや7人分ですかね」
「ほお」
「ご依頼通り、それ以上の事はしてません。いい姿になってるでしょう?」
「ふん、まあいい。謝礼はこれだ」
「どーも。あ、それと、いつものやつも…」
「持っていけ。これはオマケだ」
「こんなに…!じゃ、俺達は帰るんで、後ごゆっくり……って、兄ちゃんすげえ震えて…」
「8年……いや、もうすぐ9年になるからな」
「え?あぁ、9年ぶりに会ったって事ですか?」
「たっぷり可愛いがってやらないと…」
「そ、そうすか。あの、もしバラしたりするなら、ちゃんと洗って、ここじゃない所で頼みますぜ。何しろここは俺達のDNAだらけですから」
「殺(バラ)したりなんかするものか。これは俺の物なんだから。俺を裏切ったお仕置きは、たっぷり受けさせるがな」
「…………じゃ、じゃあ、本当に俺達はこれで、」
「行かないでっ!」
「あ?」
俺は震える声だけで必死にニシモトに追い縋った。
助けて!どこでもいいから連れていって!俺をここに置いていかないで!
西本は足を止めた様だった。もう一度、今度は「助けて」とそう叫ぶつもりだったが、叶わなかった。
「ぐっ…!」
鳩尾に誰かの靴がめり込んだ。固い、革靴。
「お前は本当に悪い子だ!俺以外の男に色目を使って!」
2発目、3発目。次々と蹴りあげられる。芋虫状態の俺は、身体を丸めて防御する他ない。
「汚いなぁ春。男の汚物にまみれて、お前の綺麗な髪も顔も汚れきっている。汚らわしい。俺という存在が在りながら不貞を働き続けた汚いお前に相応しい姿じゃないか!」
「う…ぇっ」
何発も何発も蹴られ、何度も胃液を吐いた。痛い。苦しい。このままじゃ殺される……!
そう思った時、ようやく暴力が止んだ。そして、顔のすぐ横に気配を感じた。
シュルッ―――。
唐突に目に光が射した。
痛い位の眩しさ。そして、真っ黒に見える人の顔。―――男の顔。―――あいつの、顔。
「あぁ春。それなのにお前の瞳は全く汚れていない。昔と同じ。宝石の様に美しい」
約9年ぶりに見るこの男の冷徹で残忍な笑みは昔のままだった。
歯がガタガタ鳴る。身体全体が震えて制御できない。何も言葉が出ない。
男がポケットから何かを取り出した。液体の入った小さな容器。その蓋を開けて、中身を俺の口に流し込む。
甘くて苦い、薬特有の味。拒みたいのに、口を閉じる事ができない。その代わり飲み込む事もできずに口の端からベタつく液体がダラダラ溢れる。が、それを気にもせずに次々と口の中にそれは注がれた。男の口が楽しそうに弧を描いている。
PPPPP………
電話……の、音……?
男が俺の上着のポケットを探る。
だめ……持っていかないで………。
「山の中に俺の別荘があるんだ。そこでたっぷりお仕置きだ。それが終わったら、また前みたいに沢山愛してあげ……らね………」
男が歪めた唇を動かして何か言っている。声が、遠い。気をやってはいけない。いけない……でも………全てが……遠退い……て……―――――。
ともだちにシェアしよう!