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blackout 2
バシャッ!
あんなに閉じてはいけないと念じたのに塞いでしまった目を再び開いたのは、痛みを感じたから。痛い…。いや、冷たい…?
眩しさに無意識に目元を覆うつもりが、できない。俺はまた手足を拘束されていた。
ザアッ。
「ひ…っ」
上から強い雨が――シャワーの冷水が降りかかる。蛇口を捻って出てくる水道水は、雨よりももっと冷たい。痛いくらいに。熱を奪われない様できる限り小さく小さくなる。丸まった芋虫の様に、身体を折り曲げて。
「おはよう春。目覚めはどうだ?」
「っ………」
止めて欲しい。水をかけるのをやめて欲しい。でも、声が出ない。寒さでなのか恐怖でなのか、声帯が痙攣して上手く震えてくれない。
「そんなに顔を隠すと汚れが取れないじゃないか。汚いお前は、汚いままでいたいのか?」
男は――向田はそう言いながら顔目掛けてシャワーを浴びせかける。もう全身ずぶ濡れで、冷たい水を含んだ服が身体に張り付いて容赦なく体温を奪っていく。身体をどれだけ震わしても、冷水が熱を奪う速度の方が断然早い。
「顔を上げろと言ってるんだ!俺以外の男の体液なんか一刻も早く洗い流せ!」
「っつ……!」
向田に髪を掴まれ無理矢理頭を上げられる。膝立ちにまでされると、目の前の浴槽に並々と張ってある水のなかに頭を押し沈められた。何の準備もできなかった俺は、反射的に息を吐き出してしまった。
苦しい……!
酸素を求めて身体が喘ぐ。口の中に入って来るのは水。
ゴボッゴボ!
呼吸を止めないと…!でも、どうやって。分からない。どうすれば。苦しい!
暴れ、もがく度に身体中から酸素が失われる。意識が遠退く。
気を失いかけた途端、押し込まれていた力が緩み、髪を引っ張りあげられた。
ひゅうっと喘ぐ様に息を吸って、吸い終わったと同時にまた顔は水の中にあった。
*
何度も続けられた水責めの挙げ句、俺はまた気を失っていたらしい。
次に目が覚めたのは室内だった。さっきは寒くて堪らなかったのに、今度は暑いくらいに室温が高い。
目覚めてすぐにあいつの所在を確認した。自由に動く首を左右に振って、そこに誰もいない事が分かると全身の力が脱力する程ほっとした。
俺はまだ拘束――今度は椅子に手足を括り付けられているから、安心なんてしていられる状況じゃないのに、人間ずっと緊張状態が続くとどんな状況であっても多少なりとも勝手に気を緩めてしまうものらしい。
目の前には薪がパチパチと音をたてて燃える暖炉がある。
もう一度首を回してここがどこなのか確かめてみる。どうも広いリビングルームの様に見えるが、何も物がない。テレビも、時計も、ソファーも何もない。そこにあるのは俺が括り付けられている木製の椅子と、パチパチ暖かな炎を燃やす暖炉だけ。人が生活している気配という物が何もない。
何も、ない――――。
その既視感に、暖炉の暖かさで鈍っていた恐怖心や警戒心が溢れ出す。
あいつは一体何をするつもりなんだ。
俺は殺されるのか…?
それともまた――――。
「あの」日々を思い出し、身震いする。
歯はずっと小刻みにカタカタ鳴っている。
服は、着ている。
但し、膝程まである長い白いシャツ一枚だ。
多分下着も履いていない。この心許ない布の下は恐らく素肌。
しかも、首に何かが巻き付いている。硬いものに締め付けられる様な感覚。覚えのあるこの感触は―――。
あいつの目的――――そんなの考えなくても分かるじゃないか。
俺だ。この、身体だ。
あいつは、まだ俺に執着していたのだ。
俺を、この身体を徹底的に痛め付けなければ気が済まないのだ。
また、あの時と同じ事を。
いや、それ以上の暴力を。
俺の心が壊れるか、身体が壊れるまで―――。
「おはよう春。この挨拶は2回目だね。今はまだ夜中なんだけど」
背後からあいつの声―――。
いつからいたのだろう。真後ろは死角だ。もしかしたら、俺が一時胸を撫で下ろし、再び身体を強張らせる所まで一部始終を見ていたのかもしれない。あいつの事だから、獲物をいたぶる様な目をして。
あいつはスリッパを履いているのか、歩く度にパタ、パタと床を叩く音がした。そんな音すら恐怖心を煽る。
俺の正面にあいつが移動してきた時、身体の震えはピークに達した。
こわい。こわい。こわい。
もういっそ意識をなくしたい。
ガクガクとでたらめに震えて、上下の歯がかち合わない。
あいつがじっと俺を見下ろしている。
こわい。
「春、そんなに俺が怖い?」
こわい。
「さっきは悪かったね。でも、春が悪いんだ」
こわい。
「俺という夫がいながら、あの小僧とずっと繋がっていたんだろう?」
あの小僧って…。
「誤魔化したって無駄だ。俺はずっと春を見てたんだから。遠くからだったけど、ずっとね」
やっぱり…。
「最近週刊誌に出た写真、あれには流石に腸が煮え繰り返るかと思ったよ。あんな格好してれば俺が気づかないとでも思った?俺の春が…俺だけの春が、あんな糞ガキと………。あぁ、そうそう、温泉にも行ったんだったね。あいつと二人きりで!!」
「っ…!!」
語尾を荒げた向田に髪を鷲掴みにされる。顔を近づけてきた向田の頬がピクピク不規則にひくついている。
「汚らわしい!汚物だ!お前は!」
「っつ……!」
髪をむしりとられるかと思うくらいきつく握られた。力が入りすぎて向田の手も震えている。
「学校でも沢山の男から汚い目で見られているらしいじゃないか。汚いなぁ春!それなのに!お前はこんなにも汚いのに、俺はお前しか愛せない!どうして!なんでお前なんだ!」
「うっ…」
ようやく放り投げるみたいにして頭を解放されたが、今度は頬を鷲掴みにされて上を向かされた。
「どうしてお前はあの頃と変わらず美しいんだ!どうして俺の心を摑んで離さないんだ!不貞を繰り返し、汚れきっている筈のお前が、どうしてそんなに……!」
頬を強い力で握られて痛みに顔が歪む。
「いっそこのまま握り潰して醜くしてやろうか。本当のお前に相応しい姿に!」
凄い力だった。顎が砕け、本当に顔を潰されてしまうのではと思うくらいに。
「それができればこんなに苦しまずに済んだ。そんな事ができる程度なら」
ふっと向田の手から力が抜けた。解放された頬は、力を加えられていなくともまだジンジン痛んだ。
「だからね、俺は離婚じゃなくて再構築を選ぶことにしたよ。お前が汚れたのは、敢えて俺が汚したんだと思う事にしてね。ほら、さっき汚い男共に汚されただろう?あの糞ガキも、あれと一緒だ。ほら、そう思えば、お前の心はまだ清いままだ。身体の汚れは、さっきみたいに洗い流せばいいだけだからね。だからやり直してあげる。またお前を愛してあげるよ。優しい夫だろう?」
先ほどとは打って変わって笑顔の向田が俺の顔を覗き込んだ。
「浮気を赦してあげるって言ってるんだよ。嬉しいだろう?あぁ、でも勿論無条件に赦す訳じゃないけどね」
向田の手が、シャツの胸元に伸びた。片手でボタンを一つずつ外される。
身体の震えが、強くなる。
こわい。こわい………。
ボタンが半分ほど外された所で、向田がシャツの袷を左右に割った。向田の手が、俺の胸元を這う。
「この辺にしよう」
向田の手が、左の鎖骨の下の方で止まった。顔が、近づいてくる。
「……っ」
吸い付かれた皮膚がひりついて、昔の記憶が甦ってくる。あの時と同じやり方――。
向田の口が離れた後そこには、赤い小さな痣がついていた。あの頃と同じ様に―――。
いつの間にか俺の目の前に屈んでいた向田が、今度は俺の膝を開いた。下着も履いていないので、全てが向田の目の前に晒されている筈だ。閉じたいのに、身体は勝手に震えるし、出鱈目に力が入って上手くできない。舌嘗めずりした向田の顔が股の間に入る。そして内腿にピリッと痛みを覚えた。吸われている。痣をつけられている。俺はただ、ガタガタと震えていることしかできなかった。
向田は満足そうに俺から離れて暖炉に向かった。怖くて見ていたくないのに、怖いから目が離せない。
向田は軍手の様な手袋を装着すると、暖炉の前に屈んだ。
振り返った向田の手には、ディナースプーン程の長さの金属の棒が2本握られていた。長さからしても灰かきじゃない。ただ真っ直ぐな棒じゃなくて、先っぽはワイングラスの底みたいに丸く平らになっている。
向田が俺の横に立った。軍手の様に見えた手袋は、もっと分厚そうだった。そして、手にした棒からは熱を感じる。
ずっと震えていた身体がいっそう震え出す。
それで一体何を………。嫌な想像しかできない。
向田はそんな俺をニヤついた顔で見下ろした。
「どんなに頑丈でも、首輪は外す事ができる。この跡だって、時間と共に薄れ消えてしまう。そのせいだろう?自分が一体誰の物なのかを忘れてしまっていたのは。だから俺は考えたんだ。悪い子の春にはね……」
「や………」
「一生消えない所有の証を刻んであげる!」
「うあぁあああッ!!!」
「はは…」
鉄の棒が胸元に。
グリグリ押し付けられる。
自分の皮膚が焼ける音。そしてにおい。
狂っている。
こんなことするなんて。
こんな事をしておいて、乾いた笑い声を溢せるなんて。
「っぁ………はぁ…はぁ……」
痛い。熱い。
押し付けられた鉄の棒が離れた。
楽になったと思ったのはほんの束の間で、空気に晒されたそこはすぐに痛みを倍増した。
「あぁ、少し斜めになってしまった。でも、凄くセクシーだよ」
恐る恐る、自分の胸元に視線を落とす。そこは赤く爛れていて、でもはっきりとアルファベットが刻まれていた―――。
「今度はこっち」
続けざまに内腿にも鉄の棒を押し付けられた。
―――――。
自分の叫び声が耳を劈いた。
そう思っていたら、プツリと糸が切れる様に音も痛みも何も感じなくなった。暗い闇の底に、全てが沈んでいく様に―――。
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