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blackout 9

「イク…っ!」 「何をしてる!!」 二人のその声はほぼ同時に発せられた。 いつも俺の口元で「餌」をばら蒔くこの人は、驚いたせいか俺の腹の上に「餌」をぶちまけた。それは、俺にとっては幸いな事だった。汚い物を口に含まずに済んだのだから。 終わった…。 今日もシャワーを使わせて貰えるだろうか。この人は「汚いのはごめんだ」といつも言っているから、きっと連れて行ってくれるだろう。首輪がついたままのたった5分程度だし、負わされた身体中の傷に滲みて痛いけれど、それらを化膿させたりしたくなかったし、第一俺自身も汚いままは嫌だ。この5分間は、俺が物から人間に戻る時間だった。少なくともあの人は次の日の朝までは来ない。だから、それまではずっと俺は人間でいられる――――筈だった。 でも、もうそれも終わったんだった。向田が帰って来たから。 あの人は日に3回規則的にやってきたので、日付の感覚がまだあった。向田が出掛けてから今日で4日だ。でも、向田は朝晩問わずに失神するまで俺を嬲り続けるから、日付も時間も全く狂わされてしまう。鞭で叩いたりこそはしないものの、向田に嬲られる方がより過酷だ。でも、剰りに過酷だからこそ、恐らく俺は「俺」になるだろう。そうなれば、俺は記憶を失える。夢すら見ない深い眠りにつける。物でも人間でもない、無の存在になれる……。 「貴様、俺の春によくも……!!」 向田が声を震わせ、とても怖い顔をして大股で近寄ってくる。歯を食い縛り、眦をつり上げ、拳を握って。 ―――殴られる。そう思って頭を竦めた。 ガッ! ―――だが、確かに殴られた音がしたのに、衝撃が全くない。「俺」なのか?一瞬そう思ったが、違う。俺は確かにここにいる。 「痛いっ!何をするんだ孝市っ!」 その声は下方から聞こえた。どうやら、殴られたのはあの人だった様だ。 「汚い手で俺の春に触りやがって!俺の春を醜い物で汚しやがって!!」 向田はフーフー言いながら拳を震わせてあの人を睨み付けている。 「許さん!許さんぞ貴様ッ!!」 「こ、孝市、落ち着いて。これはこいつが…サキュバスが悪いんだ。私はその色香で狂わされ、無理矢理に精を搾り取られてたんだ…!」 「サキュバス…?」 「淫魔だよ!こいつは淫魔だ!サキュバスだ!孝市の事も誘惑し陥れて、今度は私まで……。ああ恐ろしい。こんな淫魔、早く売り払おうよ孝市!交渉は?交渉はどうだったんだ?すぐに渡れそうか?」 「何をふざけた事を言っている。あれの吸いすぎか?」 「違う!違うよ!こいつに、淫魔に狂わされてたんだ!でももう大丈夫!私は正常だ!孝市のおかげで、ようやく目が覚めた!だから、こんな恐ろしい奴は早く売り払ってしまおう!こいつは私達の幸せの…」 「下らない戯れ言はもういい。今すぐこの屋敷から出ていけ。貴様の顔など二度と見たくはない」 「な、何言ってるんだ孝市。私が浮気したことを怒っているのかい?でも、それなら孝市だって同じじゃないか。この淫魔に誘われたらひとたまりも無いんだ。分かるだろ?こんなのはただの玩具だ。人ですらない。もうすぐ奴隷になるただの売り物だ。だから、こんなのとヤッても浮気の内には入らないだろ?」 あの人が媚を売るような声色で向田に一生懸命弁明しているが、向田は耳も目も全く傾けずベッドに腰かけると俺の汚れた腹を拭った。 「あぁ春。こんなに汚されて…。それに、全身酷いみみず腫じゃないか。この…鞭で打たれたのか…?」 「そ、それは悪かった!大事な商品に傷をつけてしまって…。でも、孝市だって2箇所も焼き印を押してるじゃないか!みみず腫は消えても、それは消えないんだぞ。それこそ、商品価値ががた落ちだ。それに……それに、その焼き印は何だ。名前を入れるなんて、まるで所有印みたいじゃないか。そいつは孝市の奴隷じゃないんだよ?売り物なんだから。それなのに、さっきから孝市はおかしい!そんな奴は孝市の仇で私の仇だろう?それなのに『俺の』とか言って…」 「春、ごめんね。俺がこんな奴と二人きりになんかしたから…。でも、こいつがこんな事するなんて思わなかったんだ。赦してくれ……」 会話が完全に一方通行だった。俺は向田の謝罪などどうでもいいし、向田は弁明と追及を続けるあの人を歯牙にもかけていない。 「孝市っ!!」 存在を無視され痺れを切らしたあの人が、向田に躙り寄った。向田が、ようやく顔を挙げた。 俺は完全なる傍観者だ。この立場はとても楽だ。ずっと二人争っていればいい。仲直りしてしまえば、俺は二人の玩具にされるだけだから。でも、仲違いしようと仲直りしようと、俺の運命は大して変わらないのだろう。どっちにしろ、近い内に日本を連れ出され、どこかで売られ奴隷にされるんだ。そして、役立たずになったら臓器を売られておしまい。誰にも看取られず、どこかの金持ちに吸い尽くされて死ぬんだ……。 その時はもう俺は俺でいたくないな。もうずっと深い眠りの底にいたい。それは、実質的には俺の死を表すのだろう。紫音は、心配しているだろうな。俺が死んでも、俺を探し続けるだろうか…。 やっぱり死にたくないな…。紫音に会いたい。奴隷にされるのも、自分で自分を亡き者にするのも、怖い。でも俺は…到底耐えられそうにないんだ……。

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