到着したのは大きな国立病院だった。 てっきり引き返すものと思っていた小野寺さんも中まで一緒に着いてきた。ハル先輩が落ち着いている様だったら話を聞きたいのだとか。 今日一日ぐらいそっとしておいてくれよ。 そうも思ったが、あいつが捕まっていない以上仕方ない。一刻も早く捕まえて欲しいというのもまた、俺達皆の総意だったから、誰も小野寺さんを止めなかった。 「入院してすぐ鎮静剤が入ったので、まだ眠っているかもしれません」 ハル先輩の入院する部屋まで案内してくれる傍ら看護師がそう言った。 どうして鎮静剤を使ったのだろう。小野寺さんが言うように錯乱していたからなのだろうか……。 「こちらです」 その疑問を口に出す間もなく、ナースステーションから程近い病室の前で看護師は足を止めた。 ハル先輩が、ここにいる―――。 期待と焦燥によるソワソワ感を処理しきれない内に、ドアが開かれる。 そこには、確かにハル先輩がいた。 ベッドに横たわって、目を瞑ってすうすう規則正しく寝息を立てている。 もっと傷だらけの姿を想像していたが、布団をかぶったハル先輩の寝顔は、浚われる前に見たあの寝顔と何ら変わりない様に見えた。 あぁ……戻って来たんだ……。 「春…！春……」 感極まって涙を流すお母さんを、お父さんが支えた。 俺も、二人がいなかったら泣いていたかもしれない。 小野寺さんは、眠っているのならまた後で出直すと言って帰って行った。そしてハル先輩のご両親は、程なくして主治医から呼ばれて部屋を出て行った。 二人きりになった。 ベッドサイドの椅子に座って安らかに眠るハル先輩の顔を近くで眺めて、ようやく実感が籠る。 あぁ……この日をどれだけ待ちわびただろう。この10日間は、間違いなく俺が生きてきて一番長い10日間だった。本当に本当によかった……。 変わりない様に見えたけれど、よく見ると少し頬が細くなったのが分かって、目の下に隈も見つかった。髪の毛もいつもの様に艶がないし、頬に掠り傷もある。それでも、天使の様に美しいのには変わりはないけれど。 ふと、ちらりと見えた首元が変色している様に見えた。気になって首元までかけられた布団をおそるおそる少しだけ下にずらすと、ハル先輩の首は傷だらけだった。ベルトを巻いたみたいに首回りが線を引いたように赤黒くなっていて、その回りには沢山の引っ掻き傷の様な物があった。 これはもしかして――――。 「紫音……？」 ――――11日ぶりにその声を聞いた。 俺は反射的に頭を上げる。ハル先輩が、目を開けている。俺と目が合った途端、大きな目をより大きくした。俺は、これまた反射的に横たわったままのハル先輩に抱きついた。ハル先輩は、驚いた様に身体をびくりとさせた。 「ハル先輩、よかった……戻ってきてくれて、本当に………」 守れなくてごめん。助けに行けなくてごめん。全然頼りにならなくてごめん。どんなにか辛かったろう。怖かったろう……。 沢山かけたい言葉はあったけれど、やっぱり一番に出てきたのは、「よかった」という言葉だった。失ってしまうかもしれなかった。この世で一番大切な人を。でも、ハル先輩は戻ってきた。神様、仏様、ご先祖様、本当にありがとう。ハル先輩を救ってくれて。ハル先輩を帰してくれて……。 「ちょ……なんだよ…？」 「嬉しいんです。ハル先輩が帰ってきてくれたから…」 「帰って来たって……？それに、ここは……？」 「ハル先輩、ここは病院ですよ。大丈夫。ここは安全だから……」 「え？ちょっと待って。話がよく分からない」 俺はようやく身体を離した。ハル先輩は俺の顔を見てまた目を真ん丸にした。その反応こそ俺にはよく分からなかったけど、混乱しているだけだろうと軽く考えた。だって想像していたよりもハル先輩は落ち着いていたし、理性的に見えた。小野寺さんの言っていたみたいな我を忘れてしまう様な錯乱も見られないし、自分が誰で俺が誰なのかもちゃんとわかっている。 「紫音……だよな……？」 ハル先輩は身体を起こして、俺の事を穴が空くほど見つめた。ちょっと照れる。 「そうです、紫音ですよ」 「でも紫音、随分大きく……」 「大きい…？俺、また身長伸びましたか？」 そんな訳ないけど。笑ってくれればいいなと思っておどけてみた。でも、ハル先輩は俺の顔とか身体をもう一度まじまじと見て言った。 「声も…低くなったし、髭まで生えてる………」 言われてみて初めて気づいた。声の方はよく分からないけど、頬を触ると確かにチクチク無精髭に触った。ハル先輩がいなくなってから、自分の身だしなみなんて全然気にしていなかったから…。最愛の恋人の前でこんなだらしない姿をさらけ出してる事が急に恥ずかしくなった。 「ごめん…、気にしてる余裕がなくて……。そんな、じっと見られると照れます」 「ご…ごめん。でも……でも、本当に紫音……？」 「そうですよ。ハル先輩俺の顔忘れちゃったんですか…？」 「いや…、そ、そうだよな。ごめん…。なんか俺、混乱…してるみたい……」 「大丈夫。無理もないですよ」 「……あのさ、鏡ってあるかな…？」 「鏡？」 「俺、自分の顔が見たい」 顔？どうしたのだろう…。顔を見せた所で大きな傷もないからショックを受けたりはしないだろうけど、首が見えると問題だ。 「ハル先輩、顔は何にも変わってないですよ。傷も殆どないし」 「傷……？」 「大丈夫。綺麗なままですよ」 「でも……俺………」 ハル先輩はよっぽど自分の顔が気になるのか、点滴のつながっていない右手でぺたぺたと頬を触っている。 あ、そうだ。 「鏡はないけど、写真撮ってあげましょうか？」 「写真？」 「うん、スマホで」 「すまほ…？」 写真なら首から上が写るようにすれば問題ない。それでハル先輩の混乱が少しでも治まるなら……。 「なに…？それ……？」 「俺のスマホですよ」 ハル先輩の顎から上だけを写真に納める。あんまり大きく撮ると擦り傷が目立ってしまうから、少し離れて。 「はい、どうぞ」 渡したスマホをおそるおそるといった感じに握ったハル先輩は、また目を真ん丸にして画面を凝視した。 「何も変わってないでしょう？」 でも、俺の言葉とは裏腹にハル先輩のスマホを握る手は小刻みに震え始めた。 「ハル先輩、どうしたの？大丈夫ですよ、何にも変わってないから…」 「これ、俺じゃない……」 「え…」 「俺じゃない……違う……」 ハル先輩はスマホを布団の上に取り落とすと、頭を抱えてしまった。一体どうしてしまったんだ……。 「ハル先輩、落ち着いて…」 ハル先輩の右手をそっと掴むと、ハル先輩はまたも身体をびくりと震わせて俺の手を振り払った。 「あ、あなたも、本当は紫音じゃないんだ！」 「な、何言ってるんです。俺は紫音ですよ」 「違うよ！だってあなたは………！」 ハル先輩が目を見開いて俺を見た後、はっとした表情になって、それから両手をパタリと膝の上に落とした。 ―――その時初めて気が付いた。点滴の繋がった左手の薬指に光る指輪の存在に。 それは、鉤爪の大きなダイヤモンドリングで、それの意味する所はひとつしかない。 あいつの執念深さにゾッとしたと同時に強い怒りと憎しみを覚えた。外したい。今すぐハル先輩の指からそれを―――。 「ごめん、取り乱して……」 俺が指輪の事に気を取られている内にハル先輩はびっくりするくらい落ち着きを取り戻していた。 「ハル先輩、もう大丈夫…？」 「大丈夫…って言っていいのかどうか……」 ハル先輩はそう言うけど、俺には写真を見るまでのハル先輩と今の落ち着き払ったハル先輩は普通すぎるくらい普通に見えた。意外なくらい大丈夫に見えた。いつも通り、何も変わっていない様に。10日も行方知れずだったと言うのが嘘みたいに。その片鱗も感じられない程に普通すぎて―――。 「なあ……俺今いくつ…？」 「……25、です」 「そうか。25なのか……」 まるで他人事の様にハル先輩が呟いた。 嫌な予感がした。とても嫌な予感が――――。 「俺、ここ10年間くらいの記憶がないみたいだ」 今度目を見開くのは俺の方だった。俺の心情とは裏腹に、ハル先輩は穏やかな表情を浮かべていた。