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初めはとても、受け止めきれなかった。ハル先輩が俺との事をほぼ全て忘れてしまったということを。もう俺を恋人として見てくれないということを。
でも、駆け付けた精神科の医者と共に部屋を出たハル先輩はなかなか戻っては来なくて、その間ハル先輩の両親はハル先輩の記憶喪失を前提に今後の事を話し合い始めて、嫌でも受け止めるしかなかった。理解するしかなかった。
ハル先輩の両親は、ハル先輩の身体を診た主治医から何か聞いたのかもしれない。過去の事を知らなくてもハル先輩がどんな目に遭ったか察しが付いているみたいで、忘れていてよかった…とはっきり口には出さないものの、態度はそんな感じだった。俺と違って、記憶を失ったハル先輩という事実に対して前向きだったのだ。
今のハル先輩にとって俺はただの後輩。恋人でも婚約者でもなんでもない。ハル先輩に好きだとか、愛してると言うこともできなければ、ハル先輩にそう言ってもらう事もなくて、それどころか守れなかった事を謝る事さえできないんだ…………。
「解離性健忘」
ようやくハル先輩を連れて部屋に戻ってきた医師がそう口火を切った。
「これは稀な疾病で、10年以上もの記憶をなくすケースはその中でも大変に稀です。私も始めて出会った症例です」
医師は早口で言った。珍しいケースに出会わした為か興奮を隠しきれていない。
「無くした記憶は戻るんですか?」
差し出がましいとは思ったが、俺が両親よりも先に質問した。これが一番気になっていた事だから。知りたくて知りたくてたまらなかった事だからだ。
「経過はケースバイケースです。数日から数年で記憶を取り戻す人もいますが、ずっと取り戻せない人もいますので、何とも……」
そんな………。
「それで、治療はどのように?」
俺がショックで黙りこんでいる内に、今度はお父さんが質問した。
「この疾病に至った過程には必ず強い心因的なストレスがあります。忘れるのはその強いストレスから身を守る為の一種の防御反応なのです。『その記憶があると生きていくのが困難』という程強いトラウマ体験が基になっているので、積極的に思い出させる治療を行う事はお勧めしていません」
「そうですか…」
俺の心情に反してお父さんの声色は少し安堵している様に聞こえた。
「幸い、椎名さんの場合現段階で抑鬱傾向や大きな混乱も見られていないので、治療はそれらが起こった場合の対症療法に留め、記憶の回復は椎名さんが自然に思い出すのに任せるのが最良かと思います。……それでよろしいですか?」
「それで、お願いします。春も、それでいいか?」
「………うん」
お父さんに問われたハル先輩が、少し逡巡してから控え目に頷いた。
俺は何も言えなかった。
誰もが耐えられないと思うくらいの非常に強いストレスがあったであろう事は言われるまでもなく明白だし、それを無理に思い出させようなんて事言える筈もなく……。でも俺は、本当は――――。
*
ハル先輩は、軽い脱水症状の改善と身体中にあるという傷の化膿を防ぐ目的で念のため入院することになった。ハル先輩の両親は、その準備の為に一旦家に戻った。
「それじゃあ、事件の事も何も覚えていないんですね…」
ちょうどご両親と入れ替わりに病室に顔を出した小野寺さんをデイルームに連れ出し、ハル先輩の記憶障害の事を説明すると、小野寺さんは肩を落とした。
「春君の証言が一番の手掛かりだったのですが……」
「捜査はあまり進んでいないんですか?」
「……実はさっき発見現場付近の大規模な捜索は切り上げることになったんです。遭難者でもいれば別ですが……。僕もかなり粘って捜索継続をお願いしたんですが、これ以上は………」
「そうですか……」
「春君から話が聞けない以上、現時点では八方塞がりです……」
あいつはこうしてまた逃げおおせるのか?そんなの許されない。ハル先輩をこんな風にしておいて、俺からハル先輩を奪っておいて。でも………俺にはその怒りややるせなさを声にし、行動に移す気力が残っていなかった。小野寺さん同様、力なく肩を落としていることしかできなかった。
ハル先輩が恋人としての俺との全てを忘れている。そして今後も思い出すかどうかわからない。それは、俺を天国から再び地獄に突き落とした。
地獄というのは大袈裟かもしれない。だってハル先輩はすぐそこにいて、俺の側にいて、安全な所にいて、俺に笑いかけてくれる。無事かどうかも分からなかった昨日なんかに比べたら雲泥の差だ。そうだ。俺は嬉しい。ハル先輩が無事に帰ってきてくれて、嬉しい。昨日までと比べると天と地程違う。昨日までの日々には、絶対に戻りたくない。断然今がいい。でも、悲しい。あぁ……もう、なんだかよくわからない………。
「さっきの人、誰?」
小野寺さんを帰して部屋に戻ると、すぐにハル先輩がそう聞いてきた。
「あの、えっと……」
「刑事さん?」
「いや……その……」
「隠さなくても知ってるよ。俺、誰かに捕まってどこかに連れて行かれてたんだろう?」
「どうして……」
なんでそれを知っているんだ。誰もまだハル先輩の前で事件の事に触れていない筈なのに。もしかして―――。
「さっき診察の時に聞いた。先生、俺の記憶の事疑ってたのかな?なんか嘘発見器みたいなのとか脳波計つけられて、そういう質問されたんだ。俺は全然覚えてなかったんだけど」
……思い出すわけないか。しかもこんな短時間で。俺はがっかりした一方で何故かほっとしていた。俺とのことを思い出して欲しいって心底思ってる筈なのに……。
「俺を拉致した犯人、まだ捕まってないんだ?」
「……はい」
「そっか。俺がちょっとでも覚えてれば…」
「覚えてなくていいです!」
考えるよりも先に、気づけば俺はそう言っていた。
だって思い出したらハル先輩はこんな風にあっけらかんとしていられない筈だ。穏やかな精神状態でなんていられない筈だ。あいつの存在に怯えて、外も出歩けなくなっていたかもしれない。ただでさえ重かったトラウマがもっと重くなって、精神に異常を来していたのかもしれない。でも、今のハル先輩はどうだ。退院と言われたら何の迷いもなく外に飛び出して行きそうだし、精神的にもとても安定していて、まるで何も悪いことは起こらなかったみたいだ。いや、今のハル先輩にとってはそうなのだから当然だ。
思い出して欲しい。それも本音だ。俺との関係を、思い出を、軌跡を。でも、ハル先輩に辛い体験を思い出して欲しくはない。これも本音。だって、今のハル先輩には、今回のトラウマどころか以前のトラウマすらない。何の憂いも陰りもなく、きらきら輝く本来のハル先輩なのだ。
俺はらしくもなく何をクヨクヨしていたんだ。ハル先輩が帰ってきたんだ。しかも、トラウマ全部忘れて。良かったじゃないか。ハル先輩にとって最良じゃないか。俺だって、何度ハル先輩からあの記憶が無くなればって思ったか知れない。俺との事まで全部忘れられる事は当然望んでいなかったけれど、ハル先輩が元気で朗らかに笑ってられるなら、きらきら輝いていられるならそれでいいじゃないか。世界で一番大切な人の幸せを願う事が、本当の愛だ。そう、俺はハル先輩を愛してる。愛してるんだ。幸せになって欲しいんだ。笑っていて欲しいんだ。………できればその隣に俺はずっといたかったけれど―――。でも、いいじゃないか。いいじゃないか。いいじゃないか……。
何度も何度も自分に言い聞かせる。泣きたいくらい悲しく空しいのを誤魔化して。
「紫音……?」
押し黙った俺の顔を、不思議そうにハル先輩が覗き込んだ。大丈夫?そう小さく呟き、少し心配そうに眉をひそめ、小首を傾げて。
反射的に抱き締めてしまいそうになったのを、俺はありったけの理性を働かせて押し止めた。
ハル先輩がこんなに近くにいるのに、凄く遠い……。
ためだ。もうクヨクヨするな。ハル先輩が行方知れずじゃなくここにいる。俺の目の前にいる。それだけでいい。今はそれだけで。
迷いを振りきるように俺は慌てて言葉を繋げた。
「犯人は多分逃走中だし、ハル先輩が監禁されてた場所とか覚えていたとしてももうそこにはいない可能性が高いんじゃないかな……」
「そっか…。あ、そう言えばこれ……」
そう言いながらハル先輩が左手を広げて俺に向けた。その薬指には、まだあのリングが巻き付いている……。
「これ、何か分かる?俺、元々こんなのしてたのか?」
「……違います、そんなの。そんなの、ハル先輩はつけてなかった」
「やっぱり。それじゃあこれは証拠品になるのかな…?」
ハル先輩はそう言うとあっさり指輪を取り去った。それはサイズが大きい為か全く抵抗なくハル先輩の指から外れた。
「こ、う、い、ち……」
外した指輪の内側をまじまじと見ていたハル先輩がそう呟いた。それは、忌まわしいあいつの―――。
「この指輪の持ち主…?」
それなのに、ハル先輩はそう言ってきょとんとしている。ハル先輩は、本当に、本当に露程も記憶がないんだ……。あんなにハル先輩の心に深い傷を残したあいつの事も、綺麗さっぱり忘れてるんだ……。
「それ俺が預かります。刑事さんに渡しておきますよ」
俺はハル先輩からそれを奪うように取った。
ハル先輩があいつの名前の刻まれたそれを何の感慨もなく掌に乗せているのがともかく嫌だった。
俺から、そしてハル先輩から大切な物を奪ったあいつの執念の塊の様なそれを、俺はハル先輩から見えない様に後ろ手できつく握り締めた。潰れてしまえばいいと思ったのだ。でも、掌にダイヤの凹みがはっきりとできただけで、頑丈な指輪は俺の握力ではどうにもならなかった。
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