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first step 1
入院して3日後の今日、俺に退院の許可が下りた。
退院後、治療の見地からは通院の必要はないらしいが、俺の記憶喪失の症状が珍しい事から経過を見たいと精神科医には言われた。でも、この医者に俺は初め詐病を疑われてゆさぶりの質問とか沢山されたし、他にも脳波やら心理テストやら徹底的に検査させられた。疑いありきで検査を受けるのは当然愉快ではなかったし、詐病ではないと判ってからも、まるでモルモットを見る目で俺に対していた様に思う。だから俺は多分もうこの医者にはかからない……かかりたくない。
内科の医師からは、なぜか1ヶ月後に必ず血液検査を受けに来るよう言われた。俺は病気で入院していた訳でもないのにおかしいなと思ったが、何の検査なのかは医師も母親も紫音も口を濁して教えてくれないのだ。
入院中、母親と紫音は毎日面会に来た。母親は朝から夕方まで。そして紫音は夜にやってきた。別に重病人じゃないから、常に誰かについていて貰わなきゃならない訳でもないのに。
二人にも何度もそう伝えたが、それでも変わらず二人は交代でずーっと俺の傍にいたのだ。母親はともかく紫音には仕事もあるだろうに、いつ聞いても「大丈夫です」とそれしか言わない。
母親から、紫音はプロバスケの選手だと聞いていた。
紫音は夢を叶えたんだ…!そう思うとまるで自分の事の様に嬉しかったけれど、紫音はその話をあまりしてくれなかった。俺が凄い凄いとはしゃげばはしゃぐほど、紫音はばつが悪そうな顔つきになった。それがなくても紫音はどことなく態度がぎこちなくて、歯切れが悪いというか、何となく俺に遠慮しているふしがあった。俺の記憶喪失のせいなのかもしれないが、会話が長続きしないし、自分の事も俺の事もあまり語ってはくれなかった。紫音は、俺の記憶の中ではこんなに無口な人物ではなかったのだが……。
だから俺は、自分が紫音と同じプロバスケ選手になれなかった事は母親から聞いた。俺は高校で英語教師をしていたんだとか。その高校のバスケ部の顧問をしていたらしいので、選手にはなれなかったもののバスケに関わる仕事はできているという事で、ある意味俺の夢は叶ったという事だ。けれど………俺にとってはほんの4日前までライバルだった紫音が、いつの間にか俺を抜き去って遥か高みへ登り詰めたのだと知った後では、どうしても悔しい気持ちが沸き起こってしまう。
「退院したら何かしたいことある?」
甲斐甲斐しく俺の荷物を纏めていた母親が聞いた。母さんは俺の記憶の中でも優しい人だったけれど、その記憶の中の母よりも、今の母さんは優しい。優しいというか、俺を甘やかしている。少し気持ち悪いくらいに。
ずーっと傍にいるものだから、もう少し放っておいてくれよと言いたくなるのは、俺の記憶が15才あたりからなくなっているせいだろうか。つまり、25にもなって俺は反抗期なのだろうか。……それはないか。だって、精神科の医師曰く、なくなっているのは感情を伴うエピソード記憶だけで、精神的年齢までは退行していないらしい。それに、単純に学習した事柄なんかも殆どは残っているんだとか。
精神年齢というのは自分でピンと来ないが、確かに自分が勉強したことのない事…例えば難しい数学の方程式や化学式なんかも知っているし、英語教諭をしていただけあって頭の中に英文がポンポンと浮かんでくる。
……つまり、いろんな事を総合して考えると、俺の「トラウマ」は10年前に発生し、そしてこれまでずっと俺の傍らにあったのだ。だから俺は10年分もの生活史を失くしてしまった。おそらく、今回「何者か」に拉致された際にその「トラウマ」に直面させられてしまったのだろう。
何もかも俺の推測でしかない。俺の身に何が起こったのか、両親は元より紫音も断片的にしか教えてくれないのだ。
犯人は未だ捕まっていないし、当事者の俺が全て忘れてしまっているのだから、3人が語る断片的な事柄が、今わかっている全てなのかもしれない。でもそれにしても10年前に何が起こったかについても誰も教えてはくれない。あの指輪の事も、そして―――――。
きっとみんな、俺が忘れたままでいればいいと思っているんだ。精神科の医師も「思い出させない方がいい」と言っていたから、3人はそれに従っているのだろう。きっと俺も、それに従うべきなのだ。でも……でも俺は、思い出したい。失くした記憶が、どんなに辛いものであったとしても、思い出したい。10年もの記憶がない今の俺は脱け殻だから。俺は確かにこうして生きているのに、どこか半分死んでいるみたいな気持ちになるから。そして、辛い記憶と一緒に大切な何かを無くしてしまった様な気がして、喪失感がずっと付き纏っているから。
「春…?」
気づけば考え込んでしまった俺を、母親が心配そうに見つめていた。
「ごめん。そうだな……。自分が働いてた高校を見てみたいな」
「高校にはちゃんと話したでしょう?わざわざ行かなくても…」
「うん。だから、迷惑になるだろうし中には入らないよ。でも、外観だけでも……。自分がこれまでどこで何をしていたのか知りたいから」
学校の中で俺が事件に巻き込まれた事を知っているのは校長や教頭ぐらいで、一般の教師や生徒たちには、「一身上の都合による休職」と説明してあったらしい。俺が戻って来ると信じてくれた両親と紫音がそうする様計らってくれたのだ。
俺の記憶がなくなっている事がわかった時点で、これ以上迷惑をかけたくなかった高校には退職の意を伝えた。
本当はきちんと学校に出向きたかったけれど、生徒や他の先生に姿を見られては色々事情を聞かれてしまい騒ぎになるから…という事で電話での話になってしまった。
校長先生は、「よくなったら戻っておいで」と言ってくれて、社交辞令だとしても温かい気持ちになった。でも同時に、その言葉は今の俺ではなく、25歳の本当の俺に向けた言葉なのだと思うと少し虚しくもなった。
自分の働いていた場所を観て、知る事が、記憶を取り戻すきっかけになれば……そう思った。だから、しぶる母親に頼んでここまで連れてきて貰った。それなのに――――。
「う………っ」
「ハル先輩!大丈夫!?」
母親の運転で向かっていた、学校らしき建物が見えた時だった。座っていられなくて身体が傾く。退院前に合流した紫音が俺の肩を支えた。心配顔で俺の名を呼んでいる。
頭が、割れそう……!
「ハル先輩!」
「春…!」
「だめ……いやだ……行かない……行かないっ!」
――――――――――。
*
見慣れた天井。見慣れた照明器具。
ここは、俺の部屋……?
でも、どこか、違う。部屋を見渡す。机の位置。ベッドの位置。カーテンの柄。全て変わっていない。でも、横たわっているベッドシーツの柄が違う。そして、机の上に飾っていた筈のついこの間貰ったばかりのMVPのトロフィーがない。他にもいくつかなくなった物がある。
………そうだった、俺は――――。
「あ、ハル先輩!」
部屋に入ってきたとても背の高い紫音が俺を見るなりそう言って、忙しない様子で俺の母親を呼んでいる。
あれ……?俺、どうしたんだっけ……?
「春、大丈夫?もう何ともない?」
ぱたぱたと急ぎ足で部屋に入ってきた母親が俺のベッドの脇で屈んで俺の額に手をのせて、そのまま頭を撫でた。紫音の前で恥ずかしいからやめて欲しい。でも―――。
「何とか言って、春」
「大丈夫だよ…」
ただ普通に返事をしただけなのに、母親は俺の顔を見つめて大袈裟なくらい安堵の表情を作った。
「よかった……。もう、心配したんだから……」
母親が俺の肩に顔を埋めた。
……俺にその実感がなくても、俺は10日間も行方不明になっていて、しかも今は10年以上もの記憶喪失ときているのだ。心配をかけて当然だ。母さんも父さんも俺の記憶よりも年を取っていたけど、でもそれより何よりやつれていた。痩せて疲れ果て、輝きを失っていた。そしてそれは紫音も同じだった。
だから俺は、恥ずかしいとか気味が悪いとかいう下らない理由で俺を心配してくれていた人たちを突き放してはいけないのだ、絶対に。
……でも俺、なんで家にいるんだっけ…?
確か病院を出てそのまま俺の勤めていた学校に向かっていた筈なのに……。そうだ、確か途中で酷い頭痛に襲われて、それから………。それから……?
覚えていない。記憶が途切れている……。
「母さん…」
「どうしたの?」
頭をあげた母は、目元を赤くしていた。俺ってなんて親不孝なんだろう。こんなに親を苦しめて……。
「何でもないよ。心配かけてごめん」
俺はまた新たに記憶を無くしている事をとても母親には言えなかった。これ以上、今の母さんに心配をかけたくなかったから…。
母はにっこり笑うと、お昼ご飯を作るわねと部屋を出た。
部屋に残った紫音も、母親同様ほっとした表情を浮かべていた。
相変わらず紫音は口数が少なくて、俺も元々凄く喋る方でもないから二人して無言でいる時間が多かったけど、それでも何故か居心地が悪くはなくて、気まずくもないのが不思議だった。
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