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first step 6
退院して3日目の寝覚めは最悪だった。
内容は全く覚えていないが、凄く嫌な夢を見た気がした。寝汗をびっしょりとかいていて、気づけば紫音から貰ったスマホを操作して電話をかけようとしていた。紫音に。
通話ボタンを押す直前に我に返って、紫音に迷惑をかける様な事態は免れたが、俺はなぜあの時あんなに必死になって紫音に電話をかけようとしたのだろう。そして、なぜあの時あんなにも紫音に傍にいて欲しいと思ったのだろう……。
髪を洗って頭を挙げると、目の前の鏡には嫌でも自分の上半身が写った。シャワーを浴びている内に、悪夢による心のモヤモヤはかなり晴れたが、鏡に写る自分を見るといつも気が滅入ってしまう。
「はぁ……」
知らずの内にため息が漏れる。こんなの朝っぱらから見たくはないのに……。
一番初めに気づいた首もとにあったまるでチョーカーを巻いたみたいな痣は、ようやく消えた。身体中にあったみみず腫や青痣や掠り傷も、なくなりつつある。
今俺の視線の先に映るのは、胸元にある2つのアルファベットと、首筋にいくつかあるドラキュラにでも噛まれたみたいに並ぶ赤い痕だ。
アルファベットの方は鏡越しなので鏡文字になっているが、誰がどう見ても「K.M」とはっきりと肌に刻まれている。いや、刻むというよりはケロイド状に赤く盛り上がっているので、張り付けたと言う方が的確かもしれない。
鏡を見ると尚更その存在を強く感じるが、鏡を見なくとも忘れる事は出来ない。新しい傷のせいか、どちらもズキズキと常に痛みを発しているからだ。これと同じ痛みが右足の付け根近くにもあって、筆記体の様な飾り文字で「Kouichi」とケロイド状の烙印が押されている。
この「こういち」という名前は、左手に填められていた指輪の内側に刻まれていた名前と同じ……恐らく俺を拉致した犯人の名前だ。俺はなぜあんな指輪をつけていたのか。そしてなぜ身体に名前を刻まれてしまったのか。
……そもそもなぜ俺は拉致され、10日も行方不明だったのか。この「こういち」という男の目的は一体……。
忘れているとはいえ自分の事なのだ。気になって仕方がない。でも誰も真相を教えてはくれない。それを考え始めると酷い頭痛に襲われてクラクラしてくるから、自身で長いこと考えている事すらできない。
今日も既に頭がガンガンしてきたから、事件について考えるのはもう限界の様だ。
極力鏡を見ない様にして身体と顔を洗うと、逃げるようにして浴室を出た。
身体を拭いて部屋着にしているTシャツとハーフパンツを身に付けるとキッチンに向かった。酷く喉が渇いている。
「春」
リビングの方から母親に呼ばれた。そして―――。
「おはようございます」
驚いた。脱衣室とリビングダイニングに対面しているキッチンはドアを隔てて繋がっていた。だから、リビングにお客さんが来ている事に気づいたのは今更だったのだ。
「お、おはようございます」
俺はこんな格好だし、風呂上がりでまだタオルだって肩にかけているし、邪魔だろう。すぐに踵を返すのは失礼だから、いそいそとコップにミネラルウォーターをついだ。後はこれを部屋に戻って飲もう…。
「春待って。春に用事があって見えたのよ」
再び脱衣室に引き換えそうとした俺を母親が呼び止めた。
振り返ると、ソファーに腰掛けていたお客が――男が、人の好さそうな笑みを浮かべて立ち上がり俺に会釈したから、俺も慌ててそれに従い、リビングへと向かった。着替える暇はないとしても、流石にタオルはキッチンのカウンターに置いて。
男は、初めて見る人だった。と言っても今の俺の周りにいる人達は、俺にとっては初めて見る人ばかりだから、本当に初対面なのかどうかはわからない。スーツを着ていて、20代半ばくらいだろうか。
「朝早くにすみません。ちょっとお話を伺いたくて」
男が言った。あれ……?この声どこかで聞き覚えがある。それに、よく見ると顔も見たことある様な……。
「僕の事は覚えていますか?」
男に問われて考え込む。知っている気がするけど、はっきり思い出せない…。
「すみません…」
「いえ、謝る事はありません。……となると、春君の記憶があるのは、病室で目覚めて以降という事か……」
男は最後の方独り言の様に言った。
確かに俺の記憶は病院のベッドの上から始まった。そこに至るまでの事は覚えていない。自分がどうやって「こういち」から逃れてきたのかも……。
「あの……」
誰ですか?と聞くのも失礼かと思い考えあぐねていると、
「春、この方は刑事さんよ」
母親が助け船を出してくれた。そうか、刑事さんか。
「小野寺です。よろしくお願いします」
……そうだ思い出した。一度病室に顔を出した刑事さんだ。部屋に入ってくる前に紫音がすぐにどこかに連れていってしまったから、本当に一瞬しか見ていないが、恐らく間違いない。
「お世話になっています」
記憶がない事も知っているだろうに、俺に話って何だろう…。
「それじゃあ私は部屋に……」
隣に座っていた母親が席を立った。てっきり一緒に話を聞くものだと思っていた。
「お母さん、無理言ってすみません」
「いえ。ただ……あまり刺激的なお話は……」
「はいその辺りは大丈夫です。ほとんど形式的なものですから」
「…それじゃあ、お願いします」
頭を下げて母親がリビングを出た。急によく知らない人……しかも警察官と二人にされて少し緊張する。
「改めまして、今日は事件資料の作成の為にお話を聞きたいのと、あと証拠の確認の為に来ました。よろしくお願いします」
「は、はい。よろしくお願いします」
俺の緊張を汲んでか、刑事さんは柔らかく微笑んだ。
警官って、テレビなんかで見る限りでは、強面で威圧感があって声が大きくて怖い感じの人ばかりというイメージだったが、刑事さんは物腰が柔らかいし、話しやすそうだ。それでも「警官」という権威に対して緊張はしてしまうけれど。
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