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first step 8
「部屋、暑いですか?」
「……え?」
「暑いですよね。温度下げますね」
俺は服を戻すと立ち上がり、壁かけしてあるリモコンでエアコンの設定温度を下げた。もしかしたら消した方がいいのかもしれないが、母親が戻ってきた時に寒いと可哀想だ。
母親は元々細くて華奢な人だったが、俺の行方不明のせいで更に痩せてしまい、そのせいかやたらに寒がるのだ。だから、家の中は割と暑い。外に出れない俺にとっては毎日、いつも、暑い。
そういう訳で俺の部屋着はもう晩秋というのにいつも薄手の長袖Tシャツにハーフパンツなのだが、スーツを着込んでいる刑事さんはさぞかし暑かった事だろう。早く気づいてやればよかった。こんな、顔を真っ赤にさせてしまう前に。
「何か冷たい物でも飲まれますか?」
「い、いえ、あの…」
「遠慮なさらず」
暑いよな。やっばりこの部屋暑いよな。特にリビングが暑いんだ。
キッチンに立った俺は、冷蔵庫の中を物色し、ペットボトルのレモンティーをグラスに注いだ。氷も真夏並みに沢山入れる。そういえば喉が渇いていたなと思い出して、ついでに自分の分も。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
刑事さんは俺の差し出したレモンティーを受け取るとゴクゴクといい飲みっぷりでグラスを空にした。
「おかわりはいかがですか?」
「もう、大丈夫です。すみません」
刑事さんの顔色は元に戻っていて、少し火照りが冷めた様だ。
「気がつかなくてすみませんでした。ジャケットは大丈夫ですか?」
「え…?」
「もし脱がれるならかけておきますよ」
「あ、だ、だ、大丈夫です!」
「そうですか……」
絶対暑いよなぁ。
そう思いながらも脱がないと言っている物を無理に脱がせる訳には行かず、そのまま証拠写真とやらを撮ることになった。
でも、絶対暑い筈だ。だって刑事さんはまた顔を赤くさせていたし、火照るせいか何度も顔を手で扇ぎながら撮影しているのだから。無理しないでジャケット脱げばいいのに…。
「写りそうですか?」
「は、はい…っ!」
刑事さんが答えるなりカメラのシャッターを切ったので、慌てて傷を指差した。
今撮影されているのは右足の付け根だ。流石にハーフパンツを下ろすのは抵抗があったから、裾から捲り上げて見せた。でも、場所が場所だから、普通にしていたら見辛くて文字の判別も難しいとの事で、ソファーに片足だけ上げて、立て膝で股を開く格好を指示された。
……この格好は、かなり恥ずかしい。
「お、終わりました」
刑事さんから声がかかったので、いそいそとソファーから足を下ろし、ハーフパンツの裾を元に戻す。刑事さんは…やっぱりまだ暑そうだ……。
「あの、あとこれを……」
暫く顔を扇いでいた刑事さんだったが、少し暑さが落ち着いた様だ。気を取り直す様こほんと咳払いをすると、鞄から小さな透明の袋を取り出した。中に入っているのは、あの指輪……。
「これを、元々ついていた所につけて欲しいのです」
刑事さんは言いながら白い手袋を装着した手で指輪を取り出した。
「素手で触っていいんですか?」
「はい、どうぞ」
差し出されたそれを受け取り、元々ついていた所……左手の薬指にそれを填めた。また指差しを指示され、写真を撮られる。大きな一粒ダイヤモンドのリングが、フラッシュの光を受けてキラキラと輝いている。こんなに大きなダイヤモンド、イミテーションでなければきっと相当高いに違いない。
「ありがとうございました。これで全て終わりです」
指輪を外して刑事さんに返す。刑事さんは手袋をした手でそれを受け取ると、慎重に袋に戻して鞄にしまった。
「そのこういちって人、何がしたかったんでしょうか…?」
不思議でしょうがない。だってあんな高そうなダイヤモンドリングを俺につけたのは、間違いなく「こういち」という犯人。でも、俺を拉致し、身体中みみず腫や青アザだらけにして、恐らく一生消えないであろう傷を残したのも、全部「こういち」という人。
その目的は?なぜ俺にこんな事を………。
あぁ…また頭痛が………。
「動機は…分かっている事もありますが、容疑者の取り調べを終えるまでは確証はありませんので……」
「分かっている事って何ですか?」
「それは……」
刑事さんは言葉を濁した。紫音や両親と同じように……。
「刑事さんも、俺には何も教えてくれないんですね……」
みんな教えてくれない。俺自身の事なのに。忘れていたとしても、それは確実に俺に起こった事なのに。俺だけが知らない。犯人の事も、何が起こったのかも。
「すみません……」
刑事さんが申し訳なさそうに項垂れたから、駄々を捏ねてしまった事を後悔した。みんな俺に意地悪をして教えてくれない訳ではない事は充分わかっているのだ。俺の為を思って、俺に気を遣って俺が傷つかない様にしてくれている事は、充分承知している。
皆がそう仕向けている様に、忘れてしまった事をポジティブに捉えられる様になりたい。そうなれば探りをいれようとして両親を困らせたり、紫音を無口にさせたりすることもなくなるのに……。
でも、退院してからも学校にも仕事にも行けずに家に閉じ籠りきりの生活をこのまま続けていては、とてもポジティブになれそうな気がしない。でも両親も紫音も犯人が捕まるまでは絶対に外に出るなと言うから…。
ああ…バスケがしたい。広い体育館で。いや、小さな公園でもいい。コートもゴールもなくてもいい。何ならボールに触るだけでもいい。思いっきり走り回りたい。家に閉じ籠ってじっとしているなんて性に合わない。だって俺の記憶の中ではつい数日前まで部活漬けの毎日だった。物心ついてからずっとそうだった。このままでは身体は鈍ってしまうし、心は腐ってしまう。
気晴らしがしたい。「こういち」の事を、事件の事を考えずに済む何かが欲しい………。
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