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first step 9

引きこもり生活を続けてもう1週間だ。暇で暇で仕方なくて1分経つのもびっくりするくらい長いというのに、何にもしていないせいかあっという間の日々だった。 「春にお客様がいらっしゃるわよ」 よく晴れた昼下がり、ボーッとテレビを見ていた俺に母親が言った。 お客……?さっきエントランスのインターフォンが鳴っていたから、恐らくそれがそのお客様なのだろう。また俺の知らない俺の友人かな…? 「サンフィールズのオーナーさんですって」 サンフィールズ……?それって確か紫音のチームの……。 思い当たった時にちょうど玄関のチャイムが鳴った。 げ。俺部屋着だ。家から出ることを許されない生活をしているから最近ではいつもそうなのだが、こんな格好で友人でもない目上の人に会うのはさすがに憚られる。でも、そんな人を待たせるのはもっと失礼かと思い、諦めてそのままの格好で急ぎ足で玄関に向かった。 玄関のドアを開けると、オーナーという響きには似つかわしくない30代くらいの男性が立っていた。 「やあ久しぶりだね、椎名くん」 久しぶり……? 俺と紫音のチームのオーナーさんは面識があったのだろうか……。 「この度は大変な目に遭ったね。陰ながら心配してたんだよ」 「ご心配をおかけしました」 「今日はちょっと話があるんだけど……」 「あ…失礼しました!どうぞ!」 立ち話なんて失礼にも程がある。慌てて普段全く使っていない応接室にお通しした。オーナーさんがソファーに腰かけた所でタイミングよく母親が紅茶とお菓子を運んできた。 「椎名くんの美貌はお母さん譲りなんだねえ」 母親が部屋を後にしてすぐ、オーナーがそう言った。 「びぼう」という聞き慣れない単語を「美貌」という漢字に変換するまで少し時間がかかって、理解できずにいる内にオーナーは次の話題を振ってきた。 「少し痩せたかい?」 「そうですね…」 体重なんて量ってないけれど、こんな生活をしているんだからきっと筋肉が落ちている筈だ。そうでなくても、行方不明だった10日の間に痩せたと紫音も言っていた。 「まあ元々君は細身の選手だったけど、それでももう少し太らないとな」 「はあ…」 俺ってそんなにガリガリに見えるのかな…?それにしても話って何だろう…? 「中身はさほど変わった様には見えないけど、記憶がないんだって?」 「…はい」 「じゃあ俺の事も分からないよね?」 「……すみません」 「そうか。じゃあもう一度口説こう。俺は今日君をスカウトしに来たんだよ。君に我々のチームに加わって欲しいんだ」 …………チームに…って―――――。 「ええ!?」 「そんなに驚くことはないだろう?君の実力は知っているよ。君が大学生の頃もスカウトしたし、ついこの間もね。まあどっちも振られた訳だけど、今回ばかりは諦めるつもりはなくてね」 「え、あの、俺を…?本当に……?」 俺はあまりに突然の話にパニック状態だった。頭真っ白とはまさにこの事を言うのではないだろうか。 「勿論。『椎名春』というプレーヤーの魅力もスカウトするには充分だけど、今回は紫音の為にも…ね」 「紫音の、為…?」 そう聞いて、逆上せていた頭が急激にクリアになっていく。 「そう。紫音の奴、君が行方不明の間練習も試合も出られる状態じゃなくてね。君が見つかった後になって、チームに迷惑をかけた責任をとって辞めると俺に言ってきたけど、今紫音に抜けられる訳にはいかないんだよ。責任を取りたいならチームに貢献しろと言って引き留めたはいいが…全然使い物にならない。どうも君の事が気になって仕方ないらしくてね」 「紫音が……」 物凄くショックだった。紫音が俺のせいで、せっかく叶えた夢を手放そうとしていたなんて……。紫音がどこか変だったのはそういう事だったんだ。そして、その事さえ俺は何も知らずに皆に守られて、罪悪感を覚える事もなくぬるま湯に浸かって能天気に気晴らしがしたいとか身体を動かしたいとか暇だとか子どもじみた不満で心の中をいっぱいにしていたなんて……。 「まだ犯人捕まってないんだって?」 「…はい」 「それは君も不安だね。紫音も君を放っておけない訳だ。でも、紫音も君がいつも目の届く所にいればバスケに集中できると思う。だからね、君には是が非でもこの話を受けて貰いたいんだよ」 紫音の為にも…ってそういう意味だったんだ。でもなんで紫音はそこまで俺の事……。 「あの、お話は分かりました。でも……中学の頃から記憶がないので今の自分のバスケの実力も知らないし、そもそもその技術すら忘れている可能性も……」 「大丈夫。俺も知り合いの精神科医に色々聞いてきたけど、そういう記憶は身体が覚えてるから大抵なくならないって」 「でも、もしも…」 「まぁその時は鍛え直せばいいじゃないか。少なくとも君の大学時代の実力は本物だったよ。それに、椎名くん現役よりもかなり細くなっちゃってるから、どっちにしてもすぐに使い物になるとは俺も思ってないよ。今シーズンは温存するから、練習だけ参加してしっかり身体を作ってくれればそれでいい」 「でも、それなら今俺をチームに引き入れる意味が…」 「だからそれはまあ……露骨に言っちゃうとほぼ100パーセント紫音の為だよ。あいつはこのチームの要で、バスケ界1の人気を誇るプリンスだからね。うちのチームにはあいつが絶対必要なんだよ。エースとして返り咲いて貰わないと困るんだ。正直、ブランクのある君の活躍に過度な期待はしていない。そのルックスでかなりの集客を期待できるとは踏んでいるがね。でも、紫音への影響はそんなもんじゃない。君が加入すれば紫音は必ず元のコンディションを取り戻し、チームに貢献してくれるだろう。それだけは大いに期待している。いや、確信している。だから頼む。うちのチームに来てくれ」 オーナーが頭を下げた。 俺自身のバスケの腕に期待していないなんて言われて軽くショックだったけど、それでも俺にとってプロになる事は夢だった。「大学時代の俺」や、「最近の俺」が何故スカウトを断ったのかは分からないが、チームに入って欲しいって、そんなの俺の方からお願いしたいくらいだ。 今の自分の実力は分からないけれど、でも何となく中学生レベルで止まっている訳ではない気がするのだ。やれる気がする。期待していないというオーナーを驚かしてやりたいという野心すら疼く程に。 こんなチャンスきっともう二度とない。俺が加入する事で紫音の調子が戻るかどうかは俺には分からないけれど、オーナーの言葉を信じるとすればそれが紫音の為にもなると言うのだから。たくさん心配かけて夢すら捨てさせてしまう所だった紫音の助けにもなれるなら、そんなの一石二鳥どころの話じゃない。 この話、断る理由が見当たらない。 「よろしくお願いします」 満足気に微笑んだオーナーが手を差し出して、俺たちは堅く握手を交わした。 両親は反対するだろうか。紫音はオーナーの言う様に喜んでくれるのだろうか。 でも、周りに何を言われようと俺はこのチャンスをふいにするつもりはない。また心配をかける事はとても心苦しいけれど、目の前に突然、キラキラと輝く道ができのだ。こんな所で立ち止まっていられない。

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