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determination 2
俺が窓の所から内心ニヤニヤしながらハル先輩を盗み見ていると、ハル先輩はツインベッドの片方に乗って、柔軟体操を始めた。身長に比せず長い足を開脚させて、身体を前へ、横へと倒す。俺はその様を腑抜けた顔をして穴が空くほどにじっと見た。
相変わらず軟らかくてしなやかな身体。細身だけれど健康的で、かぶり付きたくなる程に……。
お色気要素がある筈もないただのスウェット姿だと言うのに、その光景は物凄くエロい。でも勘違いしてはいけない。ハル先輩は決してエロくしてるつもりはないのだ。ただ、俺の思考回路がエロい方向へとどんどん突き進んでいってしまってるだけで。
「手伝いますか?」
そんな言葉が勝手に口をついて出た。見てはいけないという戒めを破ってしまった俺の自制心が緩むのはあっという間だった。見つめる次にしたいこと。それは当然可愛い可愛いハル先輩に触れること。
うわー、俺本当に変態じゃん。付き合ってた頃は普通だったあれやこれやは、片想いだと酷い制限を食らう上に、やることなすこと変態的に映る。
「一緒にやろう」
ニコッと笑顔で変態な俺を迎えてくれるハル先輩…。しかも深読みするとエロいセリフつきで。
吸い寄せられる様にハル先輩のいるベッドに乗り上げると、ハル先輩が怪訝そうに俺を振り仰いだ。
「狭いから、紫音はあっち」
あっちと指差されたのは、隣に並んだベッド。1メートルくらい距離がある。
そりゃそうだ。柔軟体操をしようとするならば、シングルベッド一つで大人の男二人はどう考えたって無理。でも、シングルベッドで二人で出来る事もあるんだけどな……ってまた変態的思考に陥りそうになる。でもそれは流石にダメだからいかんいかんと言い聞かせ、なけなしの理性を総動員させて隣のベッドに移ると、ハル先輩と同じ様に開脚をしてみる。………が、案の定ハル先輩に比べると全然、身体が前に倒れない……。
「あれ?紫音そんなに固かったっけ?」
「最近はこんなもんです」
わぁー紫音すごーいって所を見せたかったけれど、柔軟じゃあなぁ。昔からハル先輩のが軟らかいしなぁ。まぁ、格好いい所は明日たっぷり見せれるからいいか。試合で活躍しまくって、ハル先輩に格好いいっていっぱい…。
「はぅっ!」
変な声が出た。とても格好いいなんて言われる筈もない様な声が。
だって…だって、ハル先輩が俺の背中に密着しているのだから!
「ごめん、痛かった?」
「ぜ、全然大丈夫です!」
「紫音はエースなんだから、身体作りは大事だよな」
「は、はい」
ハル先輩は後ろから軽く押してくれたり、背筋を伸ばす様に体勢を整えてくれたりしている。ハル先輩の手が、腕が、胸が、俺の上半身に触れる。触れまくる……!しかも風呂上がりだしめちゃくちゃいい匂いしてるし!ベッドの上で、二人っきりで……。自然と鼻息が荒くなってしまう。だってもうこの状況!変なこと考えるなって言う方が無茶だ!
「痛かったら言ってな」
「い、痛くないですっ!気持ちいいです!」
「えー?」
ハル先輩は可愛らしくクスクス笑っているが、俺、今盛大に恥ずかしい事を言ったし、頭の中覗かれたらドン引きくらいじゃ済まされない様な卑猥な事考えちゃってる。気持ちいいっていうか、嬉しいっていうか、幸せっていうか、変な所に熱が集まるというか、やっぱり気持ちいいと言うか…。
もー!興奮して鼻血出そう!やっぱ俺、ハル先輩が世界で一番大好きだ!可愛いすぎるし大好きすぎる!
「ハル先輩っ!」
「うん?」
ガバッと起き上がって体勢を立て直し振り返った俺を、ハル先輩は首を傾げて見つめた。そう、見たじゃない。見つめている。宝石の様に綺麗な瞳を俺だけに向けて、微笑みを浮かべた柔らかい表情のまま俺を―――。
――――抱き締めたい。
心からそう思った。喉から手が出る程、目の前の愛しい人が欲しかった。
でも―――。
俺の両手は動かなかった。動かす事が出来なかった。
嫌われたくない。嫌われるのが怖い。柏木先輩を見る様な目で見られるのが。秋良を語るような声色で、俺を語られるのが怖い。軽蔑されたくない………。
臆病者が、俺の口を噤ませた。熱の籠った視線を、愛するハル先輩から逸らさせた。
「どうした?なんか手、震えて…」
「ダメです!」
あ――――!
ハル先輩が驚いた顔をしている。そうさせた俺自身も同様に。
臆病な俺は、心配して俺の手に触れてくれようとしたハル先輩の手を、あろうことか払い退けてしまったのだ。
「ご、ごめんなさいっ!」
「いや、俺の方こそ」
ハル先輩は言いながら然り気無くベッドから下りた。
「ごめんなさい、違う、違うんです…」
なんて事をしてしまったんだろう。最悪だ。最低だ。違うんだ。違う。触れられたくない訳じゃない。傍にいて欲しくない訳じゃない。俺の本音は寧ろその逆で…。だから、俺から離れて行かないで……。
「そういう時もあるよな」
ハル先輩が申し訳なさそうな感じに言った。
「そういう時って…」
「そっとしておいて欲しい…みたいな時。ごめん俺、気が付かなくて。試合前日なのに、気遣いが足りなかった。悪い」
ハル先輩は重くなりすぎない様にか明るめのトーンで言うと、自分のベッドに戻って何事もなかったかの様にまた柔軟を始めた。
多分、これ以上言い訳しようとして何か言っても墓穴を掘るだけだ。まさか「ムラムラして抱き締めたくて触りたくて理性が保てなさそうだったから思わず払い除けました」なんて言う訳にもいかないし。
でも、このせいでハル先輩が変な気を遣う様になったらどうしよう。本当はずっと傍にいて欲しいのに、ボディタッチだってして欲しいのに、それがなくなったら。態度までよそよそしくなってしまったら。もっと、ずっと、心も身体もハル先輩の隣にいたいのに………。
「電気消そうか?」
想像したらあまりに寂しくて脱力してパタッとベッドに仰向けになったら、ハル先輩がすかさずそう聞いた。さっきの事がなくても、ハル先輩はこうして俺に凄く気を遣ってくれていると言うのに。
「ハル先輩は、もう寝ますか?」
さっきの事が尾を引かぬ事だけを願って、なるだけ平然を装って聞いた。
「うん、紫音が寝るなら」
うぅ。いちいち返答が可愛い……。
「じゃあ、明日に備えて寝ますか」
絶対、間違いなく暫く眠れないけど。
「だな」
ハル先輩がベッドから立ち上がる。
「あ、俺がやりますよ!」
「いいよ。近いから」
確かに電気のスイッチはハル先輩がベッドを立って直ぐの所だった。そんなやり取りの内にもう既にそこに手をかけていたハル先輩が、俺を振り返った。俺は、固まった。
「おやすみ」
ハル先輩がそう言って、天使の様に優美に微笑んだのだ。
「お……おやすみなさい」
ハル先輩の表情に釘付けだった俺の返事は一拍遅れて、もう部屋が暗くなってからだった。
天使の微笑みは一瞬しか見られなかった。もっと見ていたかったなぁ……。
隣のベッドから衣擦れの音がする。ハル先輩が布団に潜り込んだのだ。
あぁ。そのベッドに俺も潜り込みたい。好きだ。好き。どうしようもなく好き。忘れられてしまったからって、忘れる事なんてできない。出来っこない。
ハル先輩の発する衣擦れや呼吸音、そしてそれがやがて寝息に変わった後でもまだドキドキしてしまって眠れなくなってしまい、そうなると今までも何十回何百回と自問してきた答えの出ない問題について考え始めてしまう。
ハル先輩の記憶は果たして戻るのだろうか…?
もしもハル先輩が全て思い出したら?
……それは、俺の事を思い出すのと同時に記憶をなくす程に酷く辛い記憶も戻ってしまうということ。過去の事、そしてついこの間の事が一気に甦ったとして、その時にハル先輩が受けるダメージは計り知れない。俺に出来ることは何だってやるけれど、心の痛みを分かち合う事は出来ても完全に庇ってあげる事は出来ない。出来ることなら代わってあげたいけれど、出来ないのだ。俺の事は思い出して欲しいけど、でも………。
じゃあもしもこの先ずっと失われた記憶が戻らなかったとしたら…?
あいつの事を思い出さない代わりに、俺の事も思い出さなかったら……。もしそうだとしたら俺は……。俺は今どうするべきなんだろう…………。
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