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a spell 3
「………8…………9…………」
よし、10回。ただの10回じゃない。10セット目の10回だ。
重たいバーベルをゆっくりとラックにセットする。ジムに通い始めた頃よりも少し重いバーベルを上げられる様になったし、多少なりとも大胸筋も逞しくなって腕も太くなった……様な気がする。紫音に比べると全然まだまだだけど。
「ハル先輩、もうベンチプレスはやめてランニングマシンしませんか?」
息を整えて、もう1セット開始しようとした時に紫音が言った。
「でも最近慣れてきたのか全然筋肉増えないんだ。多分回数が足りないか重さが足りないかだと…」
「いや、ハル先輩は元々筋肉がつきやすい体質じゃないし、そもそもハル先輩のプレースタイル的にも外側の筋肉はそんなにない方がいいですよ!」
「そうかな……」
紫音はよく俺にそう言う。でも、俺も男として、スポーツマンとして、紫音や他のチームメイトみたいな逞しい身体になりたいんだけどな……。
「そうですよ。ハル先輩の持ち味はスピードとなしなやかさとか柔軟性とか器用さだから、ゴリゴリに筋肉つけちゃうと動きにくくなりますよ。だから筋トレよりは走ったりして体力つける方がいいと思います」
悔しいけれど尤もだ。
紫音はいつも外の筋肉よりも体幹を鍛えろ。そして体力をつけろという。紫音は伊達にプロじゃないだけあって言うことは的確だと思うのだが、如何せん自分の見た目の軟弱さに納得していない俺にとっては耳が痛い。けど……。
「……わかった」
本当はもっと筋トレしたかったけれど、考えてみればランニングだってここにこなければ出来ない事だ。一人で外を走れれば話は別だが、そうでない俺にとってはここでしか出来ない度合いは実は筋トレよりも大きいかもしれない。
素直にランニングマシンを開始すると、紫音がどこかほっとした様な面持ちで隣のマシンを使い始めた。
「ハル先輩、さっきの……」
10分程走って、今日のコンディションとかペースを掴んできた頃だった。声をかけてきた紫音が何やら言いにくそうに口ごもっている。
「どうした?」
不思議に思って聞くと、紫音は意を決した様に口を開いた。
「宏樹さんとジム、行くんですか?」
何を言われるのかと思ったら、何だそんな事か。
「うん。宏樹さんが声かけてくれたらな」
社交辞令ってこともあるし、こっちから催促はできない。でも誘ってくれたら多分、いや、絶対行く。だって家でできる事って限られているし。家にある物だけだとやっぱり負荷が足りないんだよな。
「じゃあ俺が毎日付き合います」
「え……?」
「俺が毎日ジム連れて行ければ宏樹さんと行く必要ないでしょ?」
え……。いや、そうだけど。
「紫音はそんなに暇じゃないだろう?」
「大丈夫です、暇を作ります」
「何言って…」
「だからお願い。俺の目の届かない所に行かないで」
何言ってるんだよ。再び言いそうになったけど、紫音があんまり真剣な顔をしていて、そんな事言える空気じゃなかった。
紫音は心配性だ。俺から離れる事を異常な程に恐がる。俺がどこか他人事の様に感じてしまっている俺の誘拐事件は、紫音に酷いトラウマを植え付けてしまった様なのだ。
俺を部屋に置いての外出も、ようやく最近少し慣れてきたけれど、初めの頃は大袈裟でなく5分おきに電話やラインが届いた。そして、メールの返信が少しでも遅れると電話が鬼の様に鳴って、挙げ句には勝瀬さんか豊田さんが面倒くさそうに部屋に様子を見に来るから申し訳なくて堪らなかった。
当事者のくせに記憶がないせいで全く実感のない俺よりもよっぽど紫音は傷ついていて、心配してくれていて、警戒してくれていた。そんな紫音の気持ちを俺が汲まないなんて事ができる筈もなく。
「わかったよ。宏樹さんとはジムに来ない。紫音が忙しい時はこれまで通り部屋でじっとしてる。だから、わざわざ俺のために時間とか作らなくていいからな?」
暇を作るとか言ってたから、仕事セーブしたり断ったりでもされては大変だ。俺はただでさえ紫音のお荷物状態なのに、これ以上迷惑をかけられない。
「ありがとう、ハル先輩」
紫音はあからさまにほっとした様子だった。
でも、ありがとうという言葉は、俺の方が何倍も沢山紫音に言うべきなのだ。
通常の練習や試合は必ず紫音が一緒だから休まず参加できるし、忙しい合間を縫ってこうしてトレーニングに付き合ってくれたり、たまに食事に連れ出してくれたり。
共同生活が始まった当初は、紫音のあまりの心配性に戸惑うこともあったし、1人で出歩けないのは少し不便だけれど、自分の立場と状況を鑑みると仕方ないというか、当然我慢すべき所だと思うから、そんな事で不満なんて言ったらバチが当たる。寧ろ、そんなにも案じてくれている事を感謝すべきなのだ。
チームに加入してからの2週間は怒涛だった。プロチームでの練習、チームメイトとの人間関係、そして本番の試合、あとは握手会…………。
どれもが初めて尽くしでわからない事ばかりだった。でもいつもどんな時でも紫音が側にいてくれて、然り気無く手助けをしてくれて。それが俺にとってどれだけ有難い事か……。人見知りな俺がチームになんとなく溶け込めたのも、少しだけど試合に出られているのも、苦手な握手会を頑張れてきたのも、全部紫音のおかげなのだ。
「紫音、俺の方こそいつもありがとう」
ありがとうなんて一言じゃ足りないくらい紫音には感謝しているけれど、あんまり大袈裟な事を言ってもわざとらしく聞こえるかもしれないし、改めてこれ以上の感謝の言葉を並べるのも気恥ずかしい。俺も、そして紫音だってそうだ。だって紫音はすでに顔を真っ赤にさせてあたふたしている。
その姿は、俺にとっては馴染み深い若い頃の紫音を思い起こさせるものだから、なんだか心がほっこり暖かくなった。
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